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2007年4月30日 (月)

プラレールの技術革新

プラレールを買ってきた。手にしたのは約30年ぶりである。線路を走る電車を見て、子どもが興味津々だった。遊んでいるのは、決して私自身ではない。

Img_2009sプラレールというのは、タカラトミー(以前はトミー)製の子供向けのおもちゃで、プラスチック製の線路を組んで、おもちゃの電車を走らせるものである。普通は3両編成で、先頭の一両が動力車で、モーターが付き、乾電池が入るようになっている。写真は新幹線の総合試験車、ドクターイエローのプラレールである。以前と違って、パッケージにはJR承認済みと記載があった。

30年前と違って、技術面で改良されたなと驚いたのが次の点。

プラレールは、乾電池で走らせて遊ぶ場合と、手で動かして遊ぶ場合の両方がある。30年前のプラレールの電車は手で動かして遊ぼうとすると、モーターの付いた動力車がネックとなった。手で動かそうとすると、動力車はエンジンブレーキがかかったようになり、重たくてスムーズに動かせないのだった。自転車の発電機を倒して走っているのと同じで重いわけである。子どものときは知らなかったけれども、重たいのを無理に動かすとモーターは発電機として働くようになり、乾電池が無理やり充電される状況になる。乾電池は充電できないから、発電量によっては中で水素が発生し、破裂することもある(そんな事故が実際あったかどうかは知らない)

今のプラレールの電車は改良されて、動力車も手で押してスムーズに動くようになっていたので、変に感心してしまった。中を見てみると、スイッチレバーをONにする動作で、車輪の歯車とモーターの歯車がスライドして、機械的につながるようになっていた。OFFにしているときは、モーターと車輪それぞれの歯車が機械的に切り離されているので、スムーズに動くわけである。

私は、赤いデザインの新幹線(幻の逸品とされている)で遊んだ時代の人なので、この改良が昔のものなのか、比較的最近のものなのか知らない。技術的には、それほど難しいことではないにしろ、なかなか気の利いた改良だなと思った。

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西金沢駅付近散策

天気が良かったので、西金沢駅付近を散策してきた。子どもに電車を見せるのが目的であった。

JR西金沢駅は南側にしか出入り口がなく、そばに踏み切りや袴線橋があるわけでもないので、北側とのアクセスが非常に不便な状態である。駅北はJTの大工場や伊藤忠エネクスの敷地が線路にへばりついていて、北側にある住宅地とのアクセスを邪魔している。この西金沢駅周辺も再開発が進行中という話だが、駅前のコンビニはシャッターを下ろしてしまっているし、前は駅前の角地に居酒屋の「天狗」があったのだが、クロネコヤマトの宅急便に変わってしまっている。金沢近郊は、どうも鉄道の駅前が栄えないようである。

JR西金沢駅の南側には北陸鉄道(北鉄)新西金沢駅がある。80年以上前の1925年から西金沢との付いた名前だという。JRのことを国鉄(こくてつ)と呼んだ時代には、北鉄(ほくてつ)は発音上、国鉄と非常に紛らわしく、駅名だけでも新を付けて区別したのだろう。

Img_1984s 北陸新幹線が金沢まで開業したときには、新幹線の車両基地は松任に作られることになっていて、その車庫振りのための線路が金沢・松任車両基地間に敷設される予定である。その敷地が既に確保されていた(左写真、2007年4月29日撮影)。この上に車両基地に向かう新幹線が通るのだろう。この敷地は、北陸鉄道で使用する車両がJR経由で輸送されるとき、渡り線が臨時に作られる場所でもある。左側に見えるのが北鉄新西金沢駅そば(押野側)の有名な急カーブ。制限速度15キロの標識がある。自転車並みである。映っていないが右側がJR。

Img_1986s_1   左写真は駅前の踏み切りから北鉄新西金沢駅を撮影したものである。実は別のHPでここの写真を見てから、ずっと気になっていて自分の目で確認したかったのだった。その別のHPの写真とはこれ(新「石川の鉄道」新西金沢駅構内)である。線路の曲率が不連続、微分不可能であり、本当によく脱線しないものだと思った。今日の写真を見る限り、危ないという指摘でもあったのか、微妙に軌道が修正されたようである。リンク先の写真と比べると、字の下手な人がなぞって修正したような妙な曲線に変わっている。また、同駅構内の反対側のポイントでは積雪時に脱線事故が起きたが、けが人はなかった(2004年1月22日、航空・鉄道事故調査委員会 鉄道事故調査報告書RA2005-3)。

北陸鉄道新石川線の古い車両に乗っていると、直線区間でよくヨーイング、蛇行動をしているのを感じて、不安に思うことがある。上下、左右に本当によく揺れる車両である。それほど高速で走るわけではないから大丈夫なのだろう・・・。たぶん。

北陸鉄道新石川線の現在の営業区間は野町・加賀一の宮間15.9kmである。以前は加賀一の宮から、さらに奥の「釜清水」を通って、「白山下」まで延びていたのである。今でもJR西金沢駅の乗り換え案内には「北陸鉄道白山下方面」などという表示が出ている。「白山下」と言っても、白山の登山口には程遠い、今の花ゆうゆうよりは奥、かんぽの宿よりは手前のあたりである。国道157号とは手取川を挟んで反対側を走っていたらしい。私と同世代の旧鳥越村の高校生は電車で工大周辺まで通学していて、野口五郎の『私鉄沿線』の歌詞を自分に重ね合わせていたという。私などが『私鉄沿線』で思い浮かべる情景は小田急や東急沿線なのだが・・・。松本清張原作の映画『ゼロの焦点』(松竹1961年)にも、昔の北陸鉄道「白山下」駅が登場している。

白山下・加賀一の宮間が廃止されたのは、手取川にかかる鉄橋の橋脚を支える岩盤に亀裂が入り、危険な状態になったからである。1984年12月に休止されて、そのまま再開することなく廃止された。利用者が少なく、橋脚整備の予算が賄えなかったことと、並行する幹線道路が整備されて、バスが便利になったからである。

はっきり言って、北陸鉄道のスピードは遅い。自家用車で北陸鉄道と同じ方向に向かうとき、タイミングが悪いと電車と抜きつ抜かれつとなってしまい、何回も踏み切りに引っかかってしまう。西泉から金沢工大に向かうとき、西泉の踏み切りで待たされたかと思うと、野々市本町の踏み切りで同じ電車を待つことになり、工大横の踏み切りで三たび同じ電車を待つことになるのだった。

北陸鉄道石川線などは路面電車化、LRT化して、都心にもアクセスさせる方が絶対によいのだけれども、行政は金沢周辺の公共交通機関の整備を放棄している感があり、北鉄バスで十分と考えているようである。行政は、北鉄バス(初乗り200円)に助成金を出しているという。金沢に新しい軌道系交通機関が導入される日は来るのだろうか。

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2007年4月29日 (日)

水銀や放射性物質を体に塗って遊ぶ -きれいな物質の危険性

中国の小学校で子どもが水銀を体に塗って遊ぶ事故があり、水銀中毒で治療を受けているという(下記引用記事)。水銀はキラキラ光る液体で、表面張力が大きいので液滴が丸まって面白い動きをする。物珍しいので直接、手で触って遊んだのだろう。

教室で水銀遊び、中毒続出―河北省保定市  以下、Record China 4月13日15時26分配信ニュースより引用

2007年4月11日、河北省保定市に住む小学4年生の女児が原因不明の足の痛みや手の腫みを訴え北京市内の病院で検査を受けたところ、水銀中毒と判明した。女児は3か月もの間、謎の痛みに苦しみ、地元の病院を転々としたが原因がわからず、ようやく北京の病院で行った尿検査で基準値をはるかに超える水銀が検出された。

女児によると、4か月ほど前に、あるクラスメイトが不思議なものを学校に持ってきた。それは液体なのだが、手に乗せるとコロコロ動き回って面白いので、みんなでおもちゃにして遊んだことがあったという。教師も親もまさか子どもたちが水銀を触って遊んでいたとは全く知らなかったという。1か月後、クラスで足の痛みや湿疹を訴える児童が続出した。

事態を重く見た当地の疾病センターは、すべての児童の尿検査を行い、必要に応じて女児が入院している病院で治療を受けさせることを決めた。高濃度の水銀に汚染された教室はすでに封鎖されている。(翻訳編集・WF)

■ 金属水銀の経口摂取はそれほど心配ないが、水銀蒸気の吸入は危険。

水銀(化合物ではなく単体の金属水銀)は口から摂取したときの毒性はそれほど高くないが、水銀が揮発した蒸気を肺に吸い込むと有毒である。水銀蒸気を吸うと症状として、頭痛などが出る(この頭痛は吸入してから数時間の時間差攻撃でやってくる)。中国の小学生の件も、水銀と濃厚な接触をしたために、大量の水銀蒸気を吸い込んでしまったのだろう。

体温計などを破損して、誤って水銀を飲み込んでしまったときでも、口内をきれいにした後、放っていれば体内に吸収されることなく排出される(水銀体温計の説明書には、誤飲したときには、念のために牛乳や卵白を摂取して、医師に相談することと書いてある。相談する程度で構わないのである)。ただし、水銀で汚染された場所には水銀の蒸気が漂うので、身の回りには露出した水銀が存在しないようにする必要がある。

歯科医が虫歯でできた孔に詰め物をするとき、使用するのがアマルガムといわれる水銀の合金である。だいたいアマルガムの半分程度が金属水銀である。歯科医は歯の孔にアマルガムを詰めると、高温に加熱したコテをアマルガムに当てて水銀を蒸発させる。すると、残った別の金属で歯の孔が充填されるのである。歯科医はその後、うがいを促して、口内に揮散した水銀を排出させる。ほとんどの歯科医は、このとき水銀だから念入りにうがいしてくださいとも何も説明しない。これも金属水銀はそれほど毒性が高くないためだと思われるが、水銀蒸気は大丈夫なのだろうか。まさか歯科医自身が知らないはずはないと思うが、説明くらいはしておくべきだろう。

■ 水銀の昔と今、法規制

現在、環境汚染の原因物質として、水銀は他の重金属と比較して桁違いに厳しく規制されている。昭和40年代の中3コース(中3時代だったかもしれない)という学習雑誌の付録に、「理科実験べからず集」というカードがついていて、その一つに「水銀を試験管に入れるときは、底が抜けるので勢いよく流し込むべからず」というのが漫画入りで出ていた。中学生が、理科実験で金属水銀をガラス容器にとるなんてのは、今の時代では考えられないことである。ちなみに水銀の比重は13.5で液体の中では最も重い。そんなものをビーカーや試験管に勢いよく流し込むと重くて底が抜けるのだ。(同様に水銀を一気飲みすると胃に穴があいて危険)。

水銀は金、白金と同様に貴金属に分類される。環境汚染物質として槍玉に上がる前は、化学工業や日常生活に非常に役立っていて、あちこちで大量に使用されていたために、水銀資源の枯渇がまじめに心配されていたのである。現在、水銀の価格は化学実験用に流通しているもので、500グラム6300円である。現在でも安くはないが、汚染物質として槍玉に上がってなければ、貴金属なみに高くなっていた可能性が高い。

ちなみに日本の毒物劇物取締法では

「毒物」指定・・・水銀Hg、メチル水銀、塩化水銀(II)HgCl2(塩化第二水銀、昇コウ)などほとんどの水銀化合物

「劇物」指定・・・塩化水銀(I)Hg2Cl2(塩化第一水銀、甘コウ、カロメル)

「毒物」にも「劇物」にも指定されていない・・・硫化水銀(II)HgS

毒性は「毒物」>「劇物」であり、「毒物」は他に青酸カリ(シアン化カリウム)などがある。「劇物」は他に塩酸、水酸化ナトリウム、メタノールなどがある。

「毒物」と「劇物」の区別はもちろん毒性の大小によるのだが、口から入ったときの金属水銀の毒性は、「毒物」に指定されるほど高くはないのである。「毒物」に指定されているのは、蒸気を吸入したときの高い毒性のためだ。

今でも水銀、および水銀化合物が使用されている場所は

金属水銀・・・蛍光灯内部、水銀灯内部、電子式でない体温計の内部(今では医院や病院でしか見かけない)、血圧計・圧力計でマノメータを使っているタイプ、歯科治療用のアマルガム。乾電池には業界の努力により使用されなくなった。

硫化水銀・・・朱肉(ハンコ用)。余り知られていないが、印影が劣化したり、消えたりすると不都合なため、今でも朱肉には硫化水銀が用いられている。上にも述べたが、硫化水銀は劇物でも毒物でもないので毒性は低い。酸にも溶解しない安定な化合物である。しかし、赤ちゃんの手形や足形を朱肉でとるのは感心しない。

マーキュロクロム液(赤チン)・・・これも水銀化合物。現在、原料は国内で製造せず、輸入に頼っている。一時期、あまり使われなくなっていたが、復活した。ちなみに医薬品なので、毒物劇物取締法の対象外となる。

小学生が水銀をどこから入手したのか記事では触れられていないが、私はこの事件を聞いて、1987年にブラジル・ゴイアニア市で起きた放射性物質による被曝事故を思い出した。

廃業した病院から、厳重管理されていた放射性物質セシウム137が貴重品と誤認されて盗みだされ、その物質がチェレンコフ発光により、夜間でも青白く光って美しかったため、勘違いした人たちが、体に塗って遊んだり、飲用したりした事故である。

子どもに青白く光る物質や金属水銀を見て、危険性を予測させるのは無理である。大人には、危険性が予測できるリテラシーが必要であろう。

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2007年4月22日 (日)

行列のできるたこ焼き屋と律速段階

松任アピタ内に行列のできるたこ焼き屋「築地銀だこ」がある。大阪のたこ焼きとも違うし、明石~姫路地方で売られている明石焼き風たこ焼きともまた一味違うたこ焼きである。作り方を見ていると、たこ焼きの天ぷらといってもよいのかもしれない。

この前も私が並んでいると、行列の人数は約8人。ガラスウィンドウ内で3~4人の焼き手がたこ焼きを次から次へと焼いていて、焼きあがって並べられているたこ焼きはおよそ10人前あった。36人前まで同時に焼けるたこ焼きプレートが並んでいた。一方、レジは担当が1人、「かつおぶし、青のりはかけてよろしいですか?マヨネーズはからしと普通のがありますが?すぐに召し上がりますか?」などなど色々、質問をしながら、包装していくので時間がかかる。

気づいて、私がぼそっと「レジが遅いんやな」というと、前に並んでいた見知らぬおばさんも「そうやわー。たこ焼きは焼きあがって並べてあるのに・・・」と賛同した。

化学の分野ではこれを「レジが律速段階(りっそくだんかい)」であるという。

このたこ焼き屋には

 たこ焼きを焼く → レジで包装して売る

の2つの逐次プロセスが存在するわけだが、レジが遅いために、たこ焼きが早く焼きあがろうが無関係に、レジのスピードで販売速度が決まってしまう。上のようなときは、レジ要員を焼き手の要員からまわすなどして、たこ焼きを焼き上げる速度とレジの速度を均等にすべきなのである。

行列のできる店の中には、行列を意図的に作るように仕向けているのではと思わせる店が多い。銀だこの販売戦略はどうか知らないけれど、松任アピタ店では、とにかくいつも焼きあがったたこ焼きがウィンドウ内にたくさん並んでいるので、常にレジが律速となっている。

煮干だしで有名な東京・永福町の大勝軒というラーメン屋も行列ができているが、あれはラーメンが熱すぎてすぐに食べられず、しかもスープに油が張っているので全然冷めないこと、2人前分の麺が入っていることなどが、行列のできる理由である。客がラーメンを食べ始めてから食べ終わるまでに20~30分を必要としているが、これは他店の数倍だ。私は行列しながら見積もったことがあるが、他店なみの速度で客がラーメンを食べ終われば、永福町大勝軒は行列ができないという計算結果であった。大勝軒の場合は客がラーメンを食べる過程が律速ということになる。

化学を専攻した人の間では、「○○がリッソク」などという言い方をよくする。20人近くが原稿を寄せて、一冊の本を出すようなとき、Oさんの原稿が遅いと、出版時期はOさんによって決まってしまう。こんなとき「Oさんリッソクですね」などと嫌味を言い合う。PCの動作が遅くて原稿が仕上がらないと言い訳する人に対しても「リッソク段階はOさん側じゃないんですか」などなど。『立花隆秘書日記』(佐々木千賀子著、ポプラ社)にも、東大の学生が互いに「リッソク、リッソク」と指摘しあうのを見て秘書が、不思議に思うエピソードが出ていた。

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城下町金沢の選挙投票所と災害時避難場所

今日(4月22日)と先々週の日曜(4月8日)、選挙の投票のために校区内の小学校に出かけた。金沢市立弥生小学校である。先々週は天気が良かったので歩いていき、今日は雨が降っていたので自家用車で出かけた。校区内の小学校に出かけるのは先々週がはじめてだったが、ちょうどそのときは桜が満開で、春らしいいい雰囲気だった。

金沢は江戸時代に栄えた城下町であり、戦災にもあっていないので、昔からの町並みを多く残している。敵が城を攻めにくいように、道を迷路状に錯綜させてわかりにくく設計したといい、一部の地域は今でもわかりにくい迷路状の細い路地のままである。

■ わかりにくい投票所

Yayoimap1_1投票所の弥生小学校も迷路状に錯綜した路地のどまんなかにあった。金沢市選挙管理委員会から届いた投票券の地図は左のような簡略化されたものである。この投票券の略図を見て、弥生小学校にたどりつくのは至難の技であった・・・。私は決して地図が読めないわけではないが、それらしき校舎が見えても、どの道から入ればよいのかさっぱりわからなかったのである。

Yayoimap2 実際の弥生小学校の位置はMapfanから引用した左図の通りで、この地図でもかなり迷うが、校門は北側の路地にあった。校区内の小学校の位置を知らない人は少なくないのだから、もう少しわかりやすい地図を載せられないものかと思う。以前はもう少しまともな地図が載っていたように思うが、パソコンで印刷した略図になってから著しくわかりにくくなった。

■ 災害時避難場所がこれで大丈夫なのか?

さらに驚いたことにこの金沢市立弥生小学校、災害時の避難場所に指定されているのである。歩いていると道々に災害時避難場所「弥生小学校」の看板が出ていた。細い路地の奥にあるのにである。路地の奥に小学校があること自体、防災面で不安感をもつが、これが災害時避難場所とは・・・。

上のMapfanの地図では、小学校付近の様子がつかみにくいが、北側の校門がある道は幅わずか3メートル程度の細い一方通行の路地である。西に隣接する泉中学校までは幅6メートルほどの比較的余裕のある道路でアクセスできるが、小学校へはこの奥に本当に小学校があるのかと不安感をもつほどの細い路地を入っていく

どうして小学校建設時にセットバックして、アクセス道路を広げなかったのだろうか。このような細い路地では緊急災害時に消防車、災害復旧用車両、自衛隊車両のアクセスが難しく、支障をきたすはずである。

災害時の避難場所となる最低条件として、一般家屋よりも災害にあいにくいこと、アクセス道路が寸断されにくいこと、緊急の大型車両が入れることなどが挙げられると思う。災害時避難場所弥生小学校はアクセス道路が簡単に寸断されて、緊急車両がスムーズに行き来できないと懸念される。大震災が予想されている東京に比べると防災意識が低いのかも知れないが、もう少し工夫して欲しいものである。

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2007年4月15日 (日)

「王様の本」の営業停止と岩波文庫の徳田秋声

勤務先の近くには「王様の本」という比較的大きな書店の本店(石川県野々市町扇が丘4-3)がある。

4月10日(火)の昼頃に弁当を買いに外に出たら、「王様の本」本店の広い駐車場がロープで封鎖してあり、「棚卸しの為、臨時休業させていただきます」と貼り紙がしてあった。学生が大勢本を買いに来る4月はじめに棚卸しで休業するのも珍しいし、駐車場全面が封鎖されて、貼り紙が駐車場入り口にあるのも変な気がした。すると翌日、こんな記事が出ていた。営業停止だそうである。

北國新聞2007年4月11日付朝刊記事より引用

王様の本が営業停止 石川で5店 仕入れ先が送品止める 大型出店続き、淘汰の波

 石川県内で五つの書店を展開する「王様の本」(同県野々市町)は十日までに、全店舗の営業を停止した。主力の仕入れ先が送品を止めており、事業の継続は困難とみられる。ピーク時には地場書店でトップクラスの規模を誇ったが、大型店を相次いで出店する県外資本との競争が激化し、淘汰(とうた)の波に飲み込まれた形だ。

 王様の本は、野々市町の本店を中心に、松任、小松、羽咋、加賀の各店で、書籍、文具、CD・DVDなどを販売している。十日、本店の店頭には「棚卸しのため、臨時休業」の張り紙が掲示され、従業員には前日に説明があったという。

 仕入れ先のトーハン(東京)の関係者によると、九日に商品の供給を止めた。本店では、店頭の書籍などを運び出す業者の姿もみられた。

 王様の本は一九七六(昭和五十一)年に創業。民間の調査機関によると、ピーク時には石川県内で八店舗を運営し、一九九九年二月期には三十二億円を超える売上高を計上していた。

 しかし、その後、売り上げが伸びず、二〇〇三年三月に駅西店(金沢市)、今年一月末には桜田店(同)を閉店。〇六年二月期の売上高は約十八億円に落ち込んでいた。

 売り上げ低迷の背景には、ここ一、二年で、金沢とその周辺で県外資本を中心に出店競争が激化していることがある。本店のある野々市町では、昨年十月に勝木書店(福井市)が大型店をオープン、同十二月には明文堂書店(富山市)が北陸最大級の店舗を開業し、「完全にオーバーストアの状態」との見方も出ていた。

 石川県庁の周辺でも、文苑堂書店(高岡市)に続き、明文堂書店が巨艦店を建設しており、さらなる過当競争に陥る可能性がある。書籍のインターネット販売が広がる中、限られた顧客の奪い合いが過熱しており、今後、石川県内のブック業界の再編が一気に進むことも予想される。

書店はふつう、トーハンなどの取次ぎから納品された書籍を棚に並べ、取次ぎには売れた分だけの代金を支払えばよいと聞いたことがある。そういった流通形態であるにもかかわらず、取次ぎから送品を止められたということは、売れた分の代金さえ支払えなかったということか?よほど資金繰りが悪化していたのだろうか。

私が金沢に来た1999年頃は市内には大きな書店がなく、付近にはこの王様の本本店、ブック宮丸金沢南店(金沢市八日市1-706)、勝木書店泉野店(金沢市泉野出町2-7)くらいしかなく、書架には専門書なんてほとんど並んでおらず、専門書は東京に出張したときにまとめ買いするか、Amazonで買うしかなかったのである。

上の3つの本屋の中でも、ここ2、3年は廃業した「王様の本」にはほとんど出かけてなかった。品揃えが悪すぎるのであった。比較的広い店内に、専門書がないのは仕方がないとしても、新書ブームだというのに、新書の並んでいる棚はほんのわずかであった。普通の書店だったら、岩波新書、中公新書、新潮新書、ちくま新書、光文社新書などが広い面積をとって並んでいるが、それぞれの新書が数点並んでいる程度だった。私の個人的な本棚の方が品揃えがよかったくらいである。

上の新聞記事にもあるけれど、東京都心にある書店に劣らない規模の大きな書店が最近、金沢市内近郊にも増えてきた。喜ばしい限りだ。いまじん大桑店(金沢市大桑地区)、明文堂金沢野々市店(野々市町中南部)、カボス野々市店(野々市町字三納)などなど。なぜか本屋らしくない名前の店が多いが、品揃えはなかなか充実している。石川県内でこんな専門書を買う人がいるのだろうかと思えるほどのマニアックな専門書まで並べてある。

岩波文庫と徳田秋声の追憶

いまじん大桑店は、専門書以外でもなかなかの品揃えで、岩波文庫の徳田秋声『仮装人物』なんていう本が平台に置いてあり、思わず手にとってしまった。奥付けを見ると第1刷が1956年、第4刷が2005年だから、50年近くかけて版を4回重ねていることになる。漢字は古い旧字体のままで、解説を書いているのが川端康成で、小林秀雄の批評まで引用してあった。言ってみれば復刻版だと思うが、岩波の本には基本的に絶版がないといい、長年版元品切れ状態だったのが、増刷されたというのが建前上の位置付けらしい。

徳田秋声泉鏡花、室生犀星とともに金沢の三文豪と称されている。徳田秋声は一般的には泉鏡花、室生犀星と比べると少し知名度が劣る気がしないでもないが、私が徳田秋声の名前に思い入れがあるのには理由がある。

中学校3年生のときだったが、文学に造詣が深く、俳句の世界でも有名な福本泰雅先生に現代国語を習っていた。自然主義文学とは、勧善懲悪の思想と異なるこういうもので云々と熱く語られた後、代表的作家として「徳田秋」と板書されたのである。そのときだけうっかり間違われたのだろう。そのまま夏休み前の期末試験で作家名を問う出題をされて、生徒はみんなそろって「徳田秋成」と解答したのだった。福本先生は、全員そろって間違えたことに驚かれたのだろう。試験後、私の家に、授業で間違えて教えていたかどうか確認するための電話をかけてこられたのであった。

徳田秋声を徳田秋成と間違えて教えてしまったことによほど責任を感じられたのか、夏休み前のロングホームルームの時間に福本先生の時間が数分間取られ、「上田秋成という人がいてね、その人と間違えたんです。家に帰ったら、必ずノートを秋声に直しておいてください」

夏休みを迎える中学3年生に対する注意事項が唯一「徳田秋成ではなく徳田秋声」だったのを明瞭に記憶している。

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2007年4月14日 (土)

これまでの研究での「中発見」のまとめ

先日、広報活動に使う教員録を作成するとかでプロのライターに取材されたのであるが、その中で「実験に失敗しても、何かに生かす、柔軟な発想が大切」と語ったら、これまでの研究と絡めて、その点について詳しく話を聞かせてくださいということになった。そんな話をまとめてみた。なお、私の専門分野は無機材料化学である。

私はこれまでの研究生活で、大発見というと大げさだけれども、中発見といえるような発見をいくつかしてきた。新しい研究テーマとして数年間以上、展開し、学術論文や特許が数件書けて、新聞や雑誌などでトピックスとして取り上げられそうな発見である。私のしたのと同じようなレベルの発見を、大げさに脚色して「大発見」と自ら主張するスタンスをとる研究者もいるとは思う。

で、以下はその「中発見」。

■ 不定比酸化チタンの熱電変換効果の発見

Red  酸化チタンはTiO2の化学組成をもつものが一般的だが、一部TiO2-xのように、酸素の組成が2より少ない数になっているものがある。このような化合物でマグネリ相と呼ばれるものは昔から知られているのだが、その系統とは別の化合物があることを発見したのである。950℃の水素中でTiO2(アナターゼ型、あるいはルチル型)を焼成することで作れるのだが、1時間焼成すればTiO1.94、2時間焼成すればTiO1.91という風に酸素の組成は連続的に変化していく。結晶構造はルチルとも、アナターゼとも、マグネリ相とも違う斜方晶で、色はTiO2とは異なり濃青色である(写真)。ちなみに950℃ではなく、800℃だとか、600℃の水素中で酸化チタンを焼成すると、色が淡黄色から、少し水色っぽい色に変わるが、結晶構造はルチルと同じである。この水色のものは昔から知られていて古いPhysical Review誌にも登場しているのだが、斜方晶のものはこれまで知られていなかった。950℃の水素中という条件がポイントのようである。

ここまででも「中発見」といっていいと思うが、さらに面白いことを発見した。

この新しい不定比酸化チタンの電気抵抗を、温度を変えながら測ろうと、予備的にホットプレートの上にペレット(粉末を錠剤型に加圧成型したもの)を載せ、テスターを当ててみた。すると、テスターの電極のプラスとマイナスを入れ替えたときに抵抗値が違うのである。これはおかしいと電圧計やら、定電流電源を持ってきて精密に測ってみると、ペレットに起電力を生じていることがわかった。しかも、さらに精密に測ると温度差があるときだけ、起電力が生じていた。ゼーベック効果であった。文献を調べてみると、ゼーベック係数が他の物質より大きく、期待できる物質だということがわかった。これは熱電変換効果ともいい、温度差発電などへの実用化に向けて研究されている。原著論文PDF

電気抵抗がうまく測れていないのではという失敗っぽい実験結果から、新物質の熱電変換効果を発見した例である。

■ 水にたくさん溶けるホウ酸ナトリウム塩の開発

ホウ酸、ホウ砂(四ホウ酸ナトリウム十水和物)は、ホウ素系の無機化合物として一般的だが、あまり常温の水には溶けない(水への溶解度は20℃でホウ酸3.99、ホウ砂2.58)。ホウ酸やホウ砂はセルロース系のもの(木材、紙、木綿)の内部にしみこませると、燃えにくくなるいわゆる不燃・難燃効果があるのだが、水に溶かしても薄かったためにその効果が小さかった。そこで、濃いホウ酸塩水溶液を作れないかというのがテーマとなった。作り方はここでは省略するけれども、ホウ酸の8倍以上の濃度のホウ酸塩水溶液を20℃で作れるようになった。

従来の難燃剤はハロゲン系、リン系、アンチモン系など環境保全上、頭の痛いものが多いのだが、この高濃度のホウ酸塩水溶液は新しい不燃・難燃剤として既に実用化され、あちらこちらの材料に使用されている

どうやって高濃度のホウ酸塩水溶液の作り方を発見したかであるが、ホウ酸塩にはいろいろな種類があるけれど、それらを同時に溶かしたら、それぞれの飽和濃度まで全種類が溶け切るのか、それとも一部が沈殿してくるのかというようなことが、発見のヒントになっている。一言でいえば、いろんな重合度(縮合度)のポリホウ酸イオンを水溶液に溶かしてあるということである。原著論文PDF

■ 準弾性レーザー散乱法の新しい測定原理の発見

準弾性レーザー散乱法は、液体表面や液体同士の界面に発生している表面張力波(界面張力波、リプロン、ripplon、capillary wave)と呼ばれている波の振動数を計測して、表面張力(界面張力)を求める方法である。非接触で、しかも高速で経時変化を追うことができるという点がメリットである。しかし、計測する表面張力波が非常に弱いものであるため、信号が汚く、回折格子を使用するなど計測装置の組み立てに高度な技術が要求された。新しく考案した原理では、回折格子を使用せずにレーザーを当てるだけで、従来よりも桁違いにきれいな信号で測定できるようになった。原著論文PDF日本国特許第3839234号

発見の端緒は、大きなピーク(それまではノイズだと思っていた)がスペクトルに出現していたのだが、回折格子を使っても使わなくても出現しているにもかかわらず、測定試料を外すとそのピークが消えたことであった。それまではノイズだと思い込み、誰も気を止めていなかったのだが、表面張力を変えるとその「ノイズ」まで一緒に動くことを確認し、理論的な解析を経て、新しい原理の発見となったのだった。

この方法で、海洋掘削した地中のマグマの表面張力をとらえようという話もでてきているようだ。

■ 水の吸着で電気抵抗が増加するタングステン複合酸化物の発見

一般に物質に水が吸着すると、電気抵抗は小さくなる。水が電気を通すためである。水の吸着で電気抵抗が増える物質などこの世にはなかった。

私が大学院生のときであるが(1991年暮れ)、新しい合成法で作ったカリウムタングステンブロンズ(K0.3WO3)が水の吸着で、電気抵抗が増加することを発見したのである。この水の吸着で抵抗が増えるメカニズムを解明し、湿度センサへの応用の可能性をまとめたものが私の博士論文となった。昨年暮れに亡くなられた柳田博明先生が論文の審査をしてくださったのだが、この発表を柳田先生の前で行ったときには、すごく驚いた表情をされ、真剣に聞かれていたのが印象的だった。

もともとは単純に電気抵抗を測るのが目的だった。試料を加圧成形してペレットにし、ペレットをもう一度電気炉で焼いた後に、電気抵抗を測定したのだが、電気炉から出して電気抵抗を測ると、電気抵抗がみるみる増加する。少し増えるではなくて、桁違いに増えるのだった。何回やってもそうなるので、4回目くらいのときに電気炉から出さずに、電気炉の中で測ってみた。そうすると抵抗は変化しなかった。電気炉の中は乾燥した水素だったので、原因は酸素と水蒸気が考えられる。正しくは湿度(水蒸気)だけが原因だったのだが、当初、私はこれを間違えて、酸素の影響もあると考えてしまったのだった。苦い思い出である。

電気抵抗の変化を、もう少しで焼結の失敗とネガティブに解釈するところだったが、冷静に理由を解明して新事実を見出した。これも一見、失敗ぽいけれども、突き詰めると新事実が隠れている例と言えると思う。

この研究成果は日本化学会の「化学と工業」誌の1998年2月号に化学のフロンティア特集としても掲載された。

30代になると、自分の研究と言っても、自分で手を動かして行う実験と、学生・院生にやらせる実験の2種類があるのだが、上に書いた4つの発見は、自分で手を動かして実験していたときに見つけたものである。

学生・院生にやらせていた実験でも、色々と発見はあったがまた別の機会にまとめることとする。また、上のような発見以外にも、発見をベースとしない地道な研究、例えばX線吸収微細構造によるセメント中微量重金属の分析なども行ってきたのだが、これについても機会があれば紹介することにする。

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2007年4月 8日 (日)

旧東京大学生産技術研究所と国立新美術館

本日(2007年4月8日)付けの朝日新聞天声人語。

 17枚の下書きで構図を固め、ピカソは真四角に近い大カンバスに向かった。1世紀前、1907年初夏のパリ。カーテンに絡んでポーズをとる5人の娼婦は、後に「アビニョンの娘たち」(ニューヨーク近代美術館蔵)と呼ばれる。写実にこだわらない、絵画革命の記念碑だ。画家はスペインを出て3年、25歳だった。

 当時の、ベルエポック(麗しき時代)のパリは世界の若い才能を招きよせ、いい仕事をさせた。イタリアのモディリアーニは21歳で来た。ロシアから移住してきたシャガールは23歳。「一歩ごとに、あらゆるところで、街そのものが私の先生だった」と語っている。モディリアーニの隣部屋にやってきたのは26歳の藤田嗣治だ。

 仏ポンピドー・センターが所蔵する、パリで活躍した外国人芸術家の作品が東京・六本木に集まった。「異邦人(エトランジェ)たちのパリ」展(国立新美術館、5月7日まで)だ。

(後略)

 20世紀前半のパリは画家を輩出した。シャガールが「一歩ごとに、あらゆるところで、街そのものが私の先生だった」というほど、パリの街は素晴らしかったようである。私自身もパリを訪れたことがあるが、街全体が落ち着いた、いい雰囲気のきれいな街であった。あの雰囲気の街は日本にはないように思う。

 日本人観光客はあまり訪れないと言われていた、カルチェラタンというパリの学生街もいい雰囲気であった。狩人の歌に「カルチェラタンの空」というのがあったのだけれど、その歌のイメージ通りであった。この曲はNHKみんなの歌の中の一曲だったのだが、なぜかあまり有名でないようである(1986年前後によく流れていた)。

 パリに画家が集まったのと同じように、才能のある人間が同じ場所に集まって試行錯誤し、一流の仕事を成し遂げることが多いようである。例えば、池袋駅近くのトキワ荘というアパートには、手塚治虫、藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、鈴木伸一といったそうそうたる面々が集結して、漫画界の梁山泊と化していた。同じように、戦前の理化学研究所も科学史に名を残す一流の科学者を輩出している。分野は違えど、こういう一流の人物を輩出する環境に何か共通点があるのか、前からの関心ごとである。

 上の天声人語に食いついたのには、もう一個、理由がある。「国立新美術館」である。どこにできたのだろうと思っていたら、東京大学生産技術研究所の跡地(港区六本木7-22-1)である。私は大学院の5年間をそこで過ごした

 東大生産技術研究所は、2001年に駒場リサーチキャンパスに移転を完了しているが、それまでは港区六本木7丁目という繁華街のど真ん中にあった。夕食などで大学院生が連なって、六本木の街に出ると明らかに違和感があった。浮いているというべきか。互いに面識がなくても、あの集団は研究所の面々に違いないと一目でわかったものである。六本木界隈を歩いている人は、防衛庁があることまでは知っていても、東大の研究所があることまでは知らないようで、汚い格好のあんたたちは何者なの?という目で見ている人が多かった。

 国立新美術館ができるというので解体されてしまったけれども、旧東大生産技術研究所の建物は1928年(昭和3年)に建てられた年代物で、元々は陸軍第一師団歩兵第三連隊兵舎として使用されていたものである。建てられたのが関東大震災(1923年)の後で、とにかく地震に強いものをという設計だったのか、使用されている壁や床のコンクリートが妙に分厚かった。私の個人的印象では、これもまた解体されてしまった旧東大駒場寮(昭和10年築の旧制一高の寮を引き継ぐ)に、よく似ていた。旧東大生産技術研究所は、鉄筋コンクリート3階建だが建物を上から見ると数字の8の形をした妙な構造だった。軍事的理由でそういう構造にしたのか今もって謎である。当時の基準では最高水準でもさすがに70年以上経つと老朽化が進み、アルカリ骨材反応によるものと思われる網目状のひび割れがいたるところに現れていた。ああなってしまうとさすがに建てかえるしかないのだろう。

 旧東大生産技術研究所の建物は、226事件で青年将校ら反乱軍が出発した場所としても有名だった。同研究所に所属した者の中には、この場所で将校らが自決したと伝える者がいるが、不正確なように思う(資料を確認しないとよくわからないが多分間違い)。全くの余談だが、それで生産技術研究所には毎年2月26日に軍服を着た幽霊が出るという噂があった。軍靴の足音が聞こえるだとか、踊り場にある蛍光灯が揺れ出して止まらなくなるだとか、椅子に横になっていると軍人に体をたたかれただの・・・。気味悪がる人が多く、職員は2月26日は早々に引き上げる人がほとんどだった。しかし、2月26日といえば大学院生にとっては修士論文などの仕上げにめちゃくちゃ忙しい時期である。私は2月26日深夜に残って作業していたところ、どこからか本当に軍歌が聞こえる。不審に思って、元をたどると階下のY研究室で、なぜかラジカセで軍歌をかけていたのである。肝試しをしていたらしい。人騒がせなことを・・・。

 敷地内には東大物性研究所と生産技術研究所の両方があったのだが、物性研究所の前にきれいな桜の木が一本立っていた。この桜の木は見事な花を毎年咲かせるのだったが、なぜか毎年、桜の開花予想よりも一月程度早く咲いていた。そういう早咲きの桜なのだろうけど、これに関しても都市伝説めいた話がいろいろ面白おかしく伝えられていたのであった。あまり無責任なことは書けないので都市伝説とだけ書いておく。

 この建物は戦後、米軍に接収された後、半分ほどが返還されて、旧東大生産技術研究所となったのだが、残りの半分は米軍へリポートとして今でも使用されている。軍事用のヘリコプターがすぐそばに着陸してくるのはなんとも言えぬ凄い迫力であった。境界にある鉄条網には禁止事項とともに「日本の法律により罰せられます」と書いてあった。なんでも研究所側の敷地からビール瓶を投げ込む輩がいたらしく、境界の夜間の照明が明るくなったのである(米軍側から照らされるようになった)。

 真田広之と桜井幸子が主演した「高校教師」というTBS系テレビドラマ(1993年)があったのだけれど、旧東大生産技術研究所の建物はこのロケにも一部使用された。ある日、私が研究所に行くと、入り口の看板が「家庭裁判所」に変わっていた。中に入ると、公衆電話が反対向きに置かれていた。後でわかったが、これはセットで、間違って使用されないためにである。横を見ると折りたたみのパイプ椅子に小汚いおっさんが座っていた。よく見ると赤井英和であった。俳優というものはもう少しきれいなオーラを出しているものかと思ったが、ごく普通のおっさんだった。松葉杖を付きながら歩く子役も側にいた。このロケは、赤井英和がどこかに電話した後、家庭裁判所の前で父子が別れるシーンの撮影だったようである。ストーリーの本流から外れるのでこのシーンは記憶していない人が多いような気がする。

 防衛庁(現防衛省)もほぼ同時期(2000年)に六本木から市谷に移転して、跡地が「東京ミッドタウン」になったのだが、昼ごはんを食べによく旧防衛庁に出かけたものである。防衛庁には食堂と売店があり、近隣の人が売店を使うことは認められていた。食堂は防衛庁に用事がある人は使用することが認められていたから、「防衛庁の売店を使うという用事のついでに食堂を使う」ことが容認されていたのであった。庁内に入るときには入り口で紙を書くのだが、行き先には「売店」と記入して、「食堂」と書かないところがポイントであった。はっきりいって、研究所内にある生協食堂より、防衛庁食堂の方がおいしかったのである。ランチが500円だったが、使っている食材がかなり良いものであった。防衛庁は結構、便利だったが、地下鉄サリン事件以降、セキュリティが厳しくなり、部外者は防衛庁に入れなくなってしまった。逆に防衛庁の人たちは、体が資本なのか、昼休みには軽装に着替えて、我々の研究所のぐるりをランニングしている人が多かった。

 私は六本木近辺に行く機会があると、必ずラーメン屋の天鳳(てんほう)に立ち寄る。東京ミッドタウンの向かいである。あそこのラーメンは、あそこでしか出せないなんとも言えないうまい味だ。いろいろなラーメン屋を巡ったが、あそこと同じ味には出会ったことがない。めんかたく、油おおく、塩気多くという組み合わせの一三五を食するのが悦楽である。毎日食べたら体に悪い気もするが、あれをおいしいと感じているうちが健康なんだろうなと思うようにしている。

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