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2008年2月27日 (水)

研究者の確定申告 -初めてPCから電子申告

研究者が、何で確定申告をする必要があるのかと疑問に思う人がいるかもしれない。意外と知られていないが、本業とは別にわずかでも原稿料収入、講演料収入があれば、確定申告で、税金が戻ってくる場合が多い。

■ 原稿料、講演料から、あらかじめ1割引かれている税金を返してもらう

依頼されて原稿を書いて原稿料をもらったとか、講演を頼まれて謝礼をもらったなどの場合、あらかじめ税金として1割に相当する額が差し引かれている(源泉徴収)。本業が別にある研究者等の場合、この1割天引きされた税金については、確定申告すれば戻ってくる場合が多い。

研究者が原稿を書いて原稿料をもらえることは滅多にない。学術論文を書いて雑誌に載せてもらう場合、大抵は逆に持ち出しである(別刷り購入代、場合によっては掲載料等)。それでも、たまに依頼されて解説記事などを書くと5千円とか1万円とかのレベルで、原稿料がもらえることがある。

原稿料が1万円なら、手元に来るのは9千円で、1割の千円が税金として源泉徴収されてしまっている。私も、最初は知らずに損をしていたのだが、原稿を書くのに経費がかかった場合、経費に相当する分には税金がかからないので、確定申告すれば戻ってくる。例えば、1万円の原稿料収入を得るのに、1万円以上の「経費」を使った場合、赤字だから、申告すれば、税金として納めた千円は全額戻ってくる。経費が3000円なら、1万円から経費3000円を引いた7000円にだけ税金がかかることになるので、確定申告すれば300円戻ってくる。

研究者の場合、1万円の原稿料、講演料を得るのに、1万円以上経費を使うことは、実によくあることである。原稿を書くために参考にする専門書を数冊買えば、1万円を簡単に超えるし、学会で招待講演して1万円の講演謝礼をもらいながら、交通費が3万円かかることもよくある。研究者は、そういうお金の使い方をよくしている。研究者としての本業の収入から赤字分を埋め合わせに使うのである。税務署から文句を言われたことはないけれど、例えば原稿料収入5万円、書籍代30万円という形での赤字は本当によくあることである。研究者は原稿料がもらえるだけでも御の字ということだ。

原稿料収入などの雑収入(雑所得)は赤字であれば、その収入に関して税金はかからなくなるが、雑所得の赤字分を使って、本業の給料(給与所得)にかかる税金を減らすことはできない。これを「損益通算はできない」と言う。

上のように経費が収入(原稿料等)を上回る場合以外でも、他に収入のない学生、あるいは無給の研究者が雑収入を得た場合も、年収的に税金を払う必要がないので、確定申告すれば、天引きされた税金が全額戻ってくる。年収103万円以下(学生の場合は勤労学生となるので130万円以下)なら、原稿料等から天引きされた税金は全額戻ってくることになる。確定申告しないと大損である。(私は以前これを知らず、本来支払う必要のない税金を納めてしまっていた)

私は自分で書類を作って、確定申告するようになって、10年以上になるが、慣れればそれほど難しくはない。1回申告しておけば、昨年の書類を参考にしながら、楽に書類を作ることができる。

初めて確定申告したときは、書籍代などの領収証を集めて集計し、確定申告のときに書類と一緒に税務署に持参したのだったが、申告書類を出すときに一緒に領収証を出すと、「自宅に保管して置いてください。持ってこなくていいです。」と言われてしまい、拍子抜けしてしまった。その場で、何もごちゃごちゃ言われることなく、簡単に受理されて、控え書類にハンコを押してくれた。領収証の類は、見せるように言われたときに見せられるように、自宅に置いておけばいいらしい。(白色申告の場合の話である。青色になると違うらしい。) 書類提出後、2~4週間ほどで、自分の指定した銀行口座に、税の還付金が振り込まれるようだ。

■ 自宅パソコンから電子申告

昨年までは、手書きで書類を作成して、税務署に郵送していたが、今年からPCからネット経由で電子申告することにした。以下はその記録。

1.市役所に行って、住民基本台帳カードを発行してもらい、電子証明書の交付を受ける。

金沢市の場合、市役所の出張所では電子証明書の交付を受けられないと聞いたので、街中の市役所まで出向いた。10~15分でもらえると出張所の人に言われたが、案の定、1時間かかった。まず窓口で住民基本台帳カード(住基カード)の交付申請をすると、10分後、別の窓口で500円と引き換えに住基カードをゲット。その後、そのカードを持って、はじめの窓口にもう一度並び、今度は電子証明書の交付申請をする。カードの中に電子証明書を入れてもらった後、またもう一個の窓口に行って、自分の暗証番号を登録する。その後、また500円払って、電子証明書交付済みの住基カードをもらって終了。

2.ICカードリーダーを購入する。

勤務先で個人認証のためにICカードリーダーを使っていたので、それが使えるかと思っていたのだが、認識されなかった。住基カードに対応しているカードリーダーを近所の量販店で購入した。金沢市推奨のものが日立製とシャープ製らしいが(量販店談)、2980円のシャープ製を買った。

3.ICカードリーダーをインストール

シャープ製はCD-ROMが付属せず、シャープのWebサイトからソフトウェアをダウンロードして、インストールするようになっている。日立製はCD-ROM付属だが、CD-ROMは邪魔になるだけなので、シャープを選んだ。

4.公的個人認証サービス(JPKI)ソフトをインストール

金沢市役所で住基カードと一緒にCD-ROMを渡されたのだが、このCD-ROMでインストールしたところ、電子申告中にバージョンが古いことを示すエラーが出たので、Webサイトから最新版をダウンロードしてインストールし直した。

後は、e-Tax(イータックス、国税電子申告・納税システム)から、案内に従って、電子申告の手続きを済ませた。

昨夜の午後10時過ぎから3.の作業を初めて、電子申告が完了したのが、午前2時21分だった。4時間強を費やしてしまった。送信時にエラーが4,5回出て対処したが、順調な方なのか、苦労した方なのかよくわからない。まあ1日で済んだのでよしとしよう。

電子申告の方が計算が楽である。紙媒体なら説明を見ながら電卓やエクセルで計算していたところが、自動的に計算されて表示される。紙なら、複写式なので強い筆圧で書く必要があるが、それもない。ミスのときの訂正も楽である。また、紙媒体で申告するときにはない電子申告控除5000円がある。電子申告を使えば、還付される税金が5000円増えることになる。

私はPCに慣れている方だと思うが、マニュアル、手順などを流し読みしながら(精読せず)、行き当たりばったりでやったところ、最後の最後の送信時にエラーがでた。エラーメッセージを検索すると、対処法の載っているHPがたくさん出てくるので大変参考になった。市役所で前に並んでいた60代の男性が、同じく電子申告用の住基カードを交付申請していたのだが、要領を得ない質問をあれこれしていた。今回、電子申告を体験してみて、あの男性は多分あきらめるだろうな・・・と思った。

私が経験したエラーは、以下が原因だった。

・Acrobat Readerのバージョンが古かった。
・公的個人認証サービス(JPKI)ソフトに、ICカードリーダの機種を登録していなかった。
・Javaをインストールしていなかった。
・開始届出だけでなく、初期登録もする必要があった。

また、16桁の利用者識別番号、6桁の納税用確認番号はメモしておく必要がある。

電子申告に使うe-TaxのHPは比較的わかりやすい方だと思うが、税理士向けの記述と個人向けの記述が錯綜しているところがあって、個人向けのところは個人向けに絞って書いて欲しいものである。税理士向けの説明が、個人向けと同じくらい丁寧にしてあったのも意外だった。

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2008年2月23日 (土)

「姫路モノレール」の追憶

今日の産経ニュースによると、昔、廃止された「姫路モノレール」が一般公開されるそうである。記事 「姫路モノレール」一般公開へ 巨大なお荷物、一転、鉄道マニアの聖地に

これまでは、いくら要請しても、この過去の遺物を見学されてもらえなかったのだった。

姫路モノレールは、サイト「麗しの姫路モノレール」に詳しいが、とにかく姫路市により昭和40年代に採算をまったく度外視した経路に建設され、赤字のため、直ちに廃止された代物である。今でも軌道の一部が残り、車両は封鎖された手柄山公園駅に眠っている。

手柄山で開催された「姫路大博覧会」にあわせて、昭和41年(1966年)5月17日に開業、その翌年の昭和42年8月には「姫路市モノレール対策審議会」が設置されて、もう廃止が検討されたという。路線は、姫路駅と手柄山間の1.6 kmだったが、そもそも手柄山に用のある人がそんなにいるはずもなく、採算がとれるはずはなかった。手柄山は標高49.3 m、山と言うよりは小高い丘である。モノレールの手柄山駅はその中腹にあった(今でも廃駅がある)。昭和49年(1974年)に休止、昭和54年(1979年)に廃止となった。1976年の交通公社の時刻表には、姫路モノレールの欄があり、時刻表は空白で「休止中」とだけ記載があった。

友人に話すと、すごくうらやましがるのだが、私はこの姫路市営モノレールに乗ったことがある。抱っこされて車内に入り、座席に一人で座らされたから、3歳前後の頃だと思う。幼い印象としては、車内の雰囲気はバスに似ていて、電車とは違った感じだった。私が乗ったときは車内は混雑し、エアコンがなくて暑く、停車中は暗かったので、ぐずりかけていたのだったが、出発すると視界が開けて明るくなった。記憶があるのはそこまでである。

Photo_2 私の生家はモノレールの軌道から比較的近い場所だったので、幾度となく、モノレールが走っているのを見たことがある。ブルーのデザインが印象的な車両だった。いつもは2両編成なのだが、休みの日には4両編成になることもあり、壮観だった。羽田空港と浜松町を結ぶモノレールと同様、コンクリート製のレールをまたいで走る跨座式(こざしき)だった。羽田空港のモノレールの場合は、ゴム製のタイヤでコンクリート上を走るので、騒音はそれ程しないのだが、姫路モノレールはコンクリートの上にさらに鉄製のレールを敷き、その上を鉄の車輪で走るロッキード式と呼ばれる方式のものだったので、遠方の方まで、カランカラン、カランカランと軽快な音を響かせていたように思う。 画像は設計図(著作権法第32条2項に基づき引用)

モノレールが正式に廃止された1979年頃のこと、モノレールの軌道が腐食して、鉄製の部品が道路に落下、通行人が怪我をしそうになったとか、クルマが傷ついたとかニュースになったことがある。レールを撤去するにも予算がかかる、まさに負の遺産だというタッチの報道だった。そんなことがあったため、モノレールのレールのうち、道路上、特に歩道上にある部分だけが優先的に撤去された。新幹線の車窓から、途切れ途切れになったモノレールを見て、奇異に思う人が多いらしい。「あの部分を飛んで走ってたのかと思いました」という人もいるが、危ない部分から撤去された結果である。

下写真は、国土交通省提供の昭和49年(1974年)の姫路駅西側の航空写真である。下を左右に貫いている高架が山陽新幹線、走行中の新幹線車両まで映っている。そのすぐ上が国鉄(現JR)山陽本線の姫路駅。山陽本線から左下の方に分岐する単線が飾磨港線(1986年廃止)。そのまた上に映っている目立つ駅は山陽電鉄姫路駅。姫路市営モノレールの軌道は余り目立たないが、山陽電鉄姫路駅と国鉄姫路駅の間の道路沿いに見える。高架になっている山陽電鉄の軌道の上を跨いで、西進した後、南下して、山陽新幹線の高架の下をくぐっていた。航空写真でもわかるが、モノレールはかなり省スペースな乗り物である。このあたりは鉄道とモノレールと道路橋が錯綜していた。

1974himeji_4 

この姫路市営モノレールの立役者は、当時の姫路市長、石見元秀氏である。終戦直後の昭和22年から20年間市長を務めたが、昭和42年に現職で落選している。落選した一因は、このモノレールにあったらしい。この市長、妙ちくりんな建築物が好きだったらしく、名古山霊園に仏舎利塔を建てたり、公立中学校の体育館をへんてこな構造にしたりと派手にお金を使ったらしい。当時は、公共事業がムダだと批判される機運もなかったのだろう。今は建て替えられたと思うが、以前、姫路市立大白書中学校の体育館は壁が斜めに大きく傾いた変な構造だった。運動中に平衡感覚がくるって怪我をしそうになると評判が悪かった。

このモノレールの失敗以来、長い間、姫路では公共交通機関の整備が一種のタブーのように扱われているようだ。

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2011年11月3日追記
Ehonhyo1_3  お宝を扱うとうたっている今風の古書店(九州大学箱崎キャンパス付近)で、古い絵本を見つけた。800円の値札だったが、実際は50%引きの400円。その表紙を開くと、初めの頁に在りし日の姫路市営モノレールの雄姿が生き生きと描かれていた。(ひかりのくに昭和出版刊、絵 中島章作、文 新谷峰子、発行日の記載はないが多分1970前後)

 

Ehonmono1_3

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2008年2月11日 (月)

石川県金沢市の人家で2月なのに蜘蛛「アシダカグモ」を発見・・・

今日の昼間、自宅の壁に黒い毛糸くずのようなものを発見。よく見るとクモ(蜘蛛)である。そのまま忘れていたが、夕方夜6時頃になって、リビングの床に、比較的大き目の黒っぽい虫が出てきて、うろうろしている。昼間、見つけたクモのようだった。

新聞紙で叩きつぶしたのだが、この寒い時期にクモが出てくるなんて・・・と、妙に思って調べてみた。

昆虫エクスプローラというHPで調べてみると、どうもアシダカグモHeteropoda venatori)のようである。それによると、

時期:1年中

人家内に住む、褐色の大きなクモ。夜行性で、夕刻から家屋内を徘徊し、ゴキブリなどを捕らえて食べる。南方系の種類で、本州では主に千葉県以南の太平洋側で見られるが、次第に分布を北に広げつつある。

千葉以南の太平洋側で見られていたものが、分布を北に広げつつあるとはいえ、積雪のある石川県金沢市の人家に2月に出てきたのは意外である。

アシダカグモをWikipediaで調べると

全世界の熱帯、亜熱帯に分布する徘徊性のクモである。日本には茨城県以南の本州・四国・九州地方に生息し、冬季に着雪のある北海道・東北・石川県以北で確認された例はないとされるが、富山県・黒部峡谷の屋内施設でも見られ、主食とするゴキブリの勢力を追いかける形で、交通機関などでの人為分布が進んでいると考えられる。

だそうである。「石川県以北で確認された例はないとされる」一方で、「富山県黒部峡谷の屋内施設でも見られる」とある。石川県の人家で2月に発見される例は珍しいのか、どうかよくわからないままである。ゴキブリを捕食するという話だが、ゴキブリは出てきてはいない。周辺は比較的新しい住宅の並ぶ住宅街である。

ちなみに、本日(2月11日)、石川県の人家(つまり我が家)に出てきたクモの写真この写真を見る。新聞紙で叩きつぶした後なので、足は丸まってしまっている。

追記: この文献(KISHIDAIA, No.86, Sep. 2004)の4頁によると、既に1998年10月20日の北國新聞に「石川県内での発見は初めて」と報道されているようである。

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2008年2月 4日 (月)

27年前の中学受験 -能力開発センターの追憶

2月1日に東京都、神奈川県の中学入試が解禁された。首都圏の国立、私立中学の受験者数は昨年より約千人増えて、5万3千人になり、過去最高に上る。都内では区立小学校の児童のうち3~4割が中学受験のために欠席、港区では7割が欠席した小学校もあるという。

もう27年前、昭和56年(1981年)のことになるが、私が通っていた姫路市内のある公立小学校では男子児童70名弱のうち、私立中学を受験したのは確か5人だった。うち私を含めて2人が私立中学に進学したのであった。近隣に私立中学がどれくらいあるかも、私立中の受験割合に影響するが、姫路近郊には今も昔も私立中学(男子)は淳心学院と白陵の2つしかないので、首都圏ほど大きく増加はしていないのではと思う。

■ 私立中学の受験準備はいつから始める?

私立中学を受験するには通常、進学塾に通わねばならない。小学校でやる授業だけでは不十分である。塾には学校の補習を行う学習塾と、私立中学受験準備をやる進学塾(進学教室)があるが、間違っても学習塾に通ってはならない。私が小学校のとき、はじめ塾に通わず中学受験をしようとした子がいて、わからない問題を小学校の担任の先生に聞きに行っていたのだが、担任の先生はきっぱりと「先生にはわからなくて、対応できないから、塾に通って、塾の先生に聞きなさい」と言われていた。それほど特殊なトレーニングが必要ということである。

私が小学生だった1970年代後半は、私立中学の受験準備は4年生の3学期から始めるというのが定説であった。進学塾に通いはじめ、小学校とは別の特殊な勉強を開始する時期という意味である。5年生の1学期になってからはじめる子とで、格段に合格率に差があったのである。

しかし、最近は、そうではないらしい・・・。東大助手時代の同僚が、子どもが中学受験のときにこんなことを言っていたことがある。

「私らの頃って、4年生の3学期から準備するって言われてたでしょう。あれ、今は3年生の3学期からなんだって・・・。塾に、遅いですよって言われちゃって」 

桜蔭中を受けると言っていたので、一般的な例ではないかも知れないが、受験準備をはじめる時期が3年生の3学期とは少し驚いた。子どもは大人が思っているほど悲愴感をもって、勉強しているわけではないけれども。

■ 「能力開発センター」に通い始める

1970年代後半、姫路近辺には私立中学の受験対策をする進学塾がほとんどなかった。地元で「長谷川塾」と呼ばれていた「英才教室」という進学塾があったが、塾に制服があるなどしきいの高い塾であった。1979年のことだったが、小学校を休ませて塾に来させている、つまり平日の朝から塾の授業をやっているということで、社会問題化して、全国ネットのニュースになっていたのである。全国ネットのテレビ取材に対して、長谷川塾の責任者が嬉々として持論を語っていた。

長谷川塾に通うのはちょっと・・・ということになり、折り込み広告を見て、4年生の夏に「能力開発センター(能開)」の公開模試を受けたのが、通うようになったきっかけである。

Img_2290s_2 HPによると能力開発センターは1976年6月、神戸に設立されたことになっている。私が模試を受けたのは1978年の夏で、通い始めたのが1979年1月だから、創立間もないころの話である。一流私立中学の受験対策が広告にあったが、進学実績はまだなかったはずである。

左は当時使っていた「能開オリジナル」のテキスト表紙と奥付(なぜか設立前の昭和49年発行となっている)

Img_2293s似たような名前の塾が多いが、今は株式会社ティエラコム(代表取締役社長 増澤空)が運営する神戸拠点の「能力開発センター」が私が通っていた塾である。大阪拠点の能開センター(以前の能開総合教育センタ  ー)という塾は(株)ワオコーポレーション(代表取締役社長 西澤昭男、以前の(株)教育総研)が運営する別の塾である。もともとは同じ(株)能力開発センターだったが、1979年に神戸と大阪に分裂したのである。新聞にも報道されていた。お金を大阪に集めるか、神戸に集めるかでもめて分裂したという噂だった。試験の優秀者一覧から大阪勢が急に消えて、姫路と神戸だけの優秀者が載るようになったことがあったのだが、こういった事情が背景にあったのだった。分裂のときの紳士協定があって、どちらか片方が教室を出した都道府県には、もう一社は出さないという取り決めがあるらしい。(と書いたが、2008年現在、石川県金沢市には大阪系ワオコーポレーションの経営する個別指導アクシスAxisと、神戸系のティエラコムの経営する能力開発センターの両方が比較的近い場所に校舎を構えている。紳士協定は有名無実化したのか?) 上のテキスト奥付の写真には分裂前の二氏の名前が並記されていて、かなり貴重な文献のような気がする。また、一橋能開センターは全く無関係の塾。

■ 体罰推奨の超スパルタ塾

「能力開発センター」という名称からは、最新の教育理論、知見に基づいて、科学的に能力を開発するという印象を受けるのだが、私が通っていた1970年代後半から1980年代の実態は、体罰容認、いや推奨の超スパルタ塾であった。

1学年上に能力開発センターから灘中学に入った人がいて、名をAさんというのだが、先生方がよくAさんの話題を出して、彼に続けとハッパをかけていた。その数年後、1987年、東大理1に入学したとき、新入生の世話をしてくださる1学年上の先輩に、聞き覚えのある名前の方がいて、灘高校出身であった。それがAさんだったのである。新入生が企画した飲み会で一緒になったので、Aさんに「小学校のとき、能開に通ってたんじゃ・・・」と話をふったら、「そうだよ、能開だったよ。下田先生が怖い先生でさー。俺、あの先生に殴られて、鼻血出したことあるもん」と思い出を語って下さった。

このとき、まわりにいた東大の新入生は「先生に殴られて鼻血なんて、ありえない、信じられない、しかも塾でなんて・・・」とひいてしまっていたので、東大生のほとんどはスパルタ式教育を受けたことがなかったのであろう。体罰がなくても、東大には入れるということを付言したい。

※ 下田先生というのは、下田空(むなし)先生で、名字は違っているが今の代表取締役社長増澤空氏である。

■ 今までの人生でいちばん怖い先生

塾の方針なのか、各学年に怖い先生が一人いて指導している風であった。私の学年は中田先生という極めて怖い先生がいて、スパルタ式の厳しい指導をされていた。私は、これまで色んな教育を受けてきたけれども、彼ほど怖い、よく怒る先生は今もって出会っていない。以下は決して、過去の指導を批判する目的ではなく、懐かしく思い出を語りたいという気持ちで書いている。どんな風だったかというと・・・。

授業中の私語、よそ見、あくびは言うに及ばず、頬杖をつく、イスの座り方が悪い、貧乏ゆすりをする、各科目の参考書を持参していない、社会の時間に地図帳を持参していない、国語の時間に国語辞典を机上に置いていないなどの理由で、授業の流れが止まり、黒板消しが投げつけられ、あるいは「何をやっとるか!お前は!」と怒鳴られ、前に呼び出されビンタされるのであった。

試験冒頭にある計算問題の間違い1つにつき、ビンタ1発・・・「一問でも間違えた奴、出てこい!」と怒鳴られて、一列に並ばされて、間違えた数だけビンタされる。

漢字の書き取り試験の間違い1つにつき、ビンタ1発・・・あらかじめ漢字の試験範囲が発表されているのだが、間違えた数だけビンタされる。

先生が辞書を引けという指示を出した後、国語辞典を箱からだして引いていた子がいたら、函から出すという動作が無駄だ!辞典を函になんか入れておくな!と辞典の函をビリビリに破られた子もいた。

ビンタだけではない。「力の5000題」というハードカバーの分厚い参考書があるのだが、それで頭を殴られることもあった。4冊重ねて「力の2万題じゃ」と殴られることもあった。これが広辞苑に変わることもあった。

忘れ物をすると油性マジックで顔に「地図忘れ」などと書かれたこともある。

授業中の雰囲気がよくないという理由で、クラス全員が正座させられたり、ビンタされたりしたこともある。言っても信じない人がいるのだが、トイレの床に正座させられた子もいた。

試験中に意味もなく、肩たたき棒の硬い方で、全員の頭を一発ずつ叩いていかれたこともあった。後で理由を聞くと、「先生が教室に入ってきたのを見て、みんなの姿勢が急に変わった」からだった。とにかく先生を見て急にうつむいて、試験に取り組んだのだという。全員のことではないが、全員が叩かれるのであった。

休み時間に「先生、腹が減った」と言ったという理由だけで、むちゃくちゃに怒られて、何発もビンタされたケースもあった。

ノートは大学ノートを使うのだが、たまにノートチェックが入って、使い方が悪いと、一人ずつ呼び出され、みんなの前でノートを破られるのであった。破られるというのはノート1冊丸ごと真っ二つに手で破られるのである。

なにかの理由で、前に筆箱をもって呼び出され、鉛筆をすべて折られ、定規を折られ、布製の筆箱をビリビリに破られた子もいた。

罰として、「能開名物」という名の宿題が出されることもあった。国語の参考書に載っている漢字の熟語一覧(数十ページ分)をすべて、大学ノートに書き写すというものであった。1週間あれば何とかなるが、夏期講習、冬期講習などのときには翌日までと言う期限で、出されるのであった。物理的に不可能な作業なのであるが、未完のまま提出すると、またビンタされるのであった。

「三権分立」を説明するのに、前方に座った3人を三角形に向かい合わせて、子ども同士、右手で右の子の左頬をつねらせ、左手で左の子の右頬をつねらせる。三角形を作るように、お互いに思い切り頬をつねらせて、「これが三権分立や!」と説明されていた。体罰だったのか、説明だったのか定かでない。

都道府県の県庁所在地を一人ずつ順番に言わせていって、間違った者には1発ビンタというのもあった。だから、1クラスの人数は47人前後だったのだろう。1クラスの人数は比較的多めで、選抜クラスでも40~50人、通常のクラスだとその倍近くいたのではと思う。それだけ流行っていたということだが、経営的にいえば効率がよいということになろう。休み時間に1クラスの人数を数えてた生徒がいて、先生に見つかり、「人数なんか数えてどうする、そんな暇があったら自習しろ」と怒鳴られて、ビンタされていたこともあった。1クラスの人数が多かったのは、塾として痛いところだったのかもしれない。

休日にイレギュラーに企画された「子ども懇談会」という集まりがあったのだが、数名が欠席して、他塾の模擬試験を受けたところ、先生に激高されて、みんなの前で、怒鳴り散らされていたこともある。後で思うに、「子ども懇談会」は他塾の模擬試験を受けさせないための企画だったんだろう。

家庭学習の指示も厳しいもので、「こたつで勉強するな!机で勉強しろ」、「受験生はテレビを見るな!」、「睡眠時間をけずって、夜12時以降まで勉強しろ!」などなど。たまに深夜に家に電話がかかってきて、これらのことをチェックされるのであった。

また、入試本番前日、試験直前の待機時間には勉強をするなという変わった指示が出されていた。あれをやっていない、これをやっていないと焦りだすだけだからというのが理由だったように思う。しかし、何回も入試を経験した身としては、この指示だけは誤りであると断言できる。入試前日、試験直前の待機時間にも必ず普段どおり勉強すべきである。試験前日、直前の1時間は、準備期間の1週間に匹敵するほどの学習効果がある。試験のとき、直前に学習したことは、それだけ鮮明に頭の中に残っているという意味である。脳科学的には記憶する部位が違うらしい。

下写真は、合格体験記、作文を集めた冊子。当時、「つばさ」の名前で定期的に配布されていた。こんなのが現存してるとは・・・と言われた。

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■ 能開五訓

塾としての能開の是として、「能開五訓」というのがあって、結構いいことが書いてあったのだが、検索しても出てこない。今は、能開五訓は引っ込めたようである。腑に落ちないので、うろ覚えのフレーズで検索して納得した。能開五訓は、旺文社の創業者、故 赤尾好夫氏の作った勉強十戒を一部引用したものであったようだ。Webが発達した現在、同じフレーズはますいので引っ込めたのであろう。以下は、能開五訓でなく、勉強十戒。

一.学習の計画を立てよう――計画のないところに成功はない
二.精神を集中しよう――集中の度合が理解の度合である
三.ムダをはぶこう――戦略の第一は時間の配分にある
四.勉強法を工夫しよう――工夫なき勉強に能率の向上はない
五.自己のペースを守ろう――他をみればスピードはおちる
六.断じて中途でやめるな――中断はゼロである
七.成功者の言に耳を傾けよう――暗夜を照らす灯だ
八.現状に対し臆病になるな――逃避は敗北である
九.失敗を謙虚に反省しよう――向上へのクッションがそこにある
十.大胆にして細心であれ――小心と粗放に勝利はない

今、考えると、塾の授業自体も十分役立ったと思うが、塾で強制される家庭での学習がかなり役にたったという気がする。社会や理科の宿題では、次の学習内容について、大学ノート10ページ分調べて書いてこいという指示が出されて、参考書を丸写ししてくることになるのだが、これがかなり自分の役に立った。小学生のうちは、書き写すという単純な作業でかなり身につくようである。ある程度、大人になれば参考書を黙読するだけで理解できるが、小学生のうちは読むだけでは自分の身につかないことが多い気がする。

自分の通った能力開発センターがスパルタだったためか、私は受験産業はすべてスパルタ方式なものとしばらくの間、誤解してしまっていた。大学受験準備で通った河合塾はリベラルなところだったし、体罰を容認する塾自体、当時でも少数派だったようである。

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