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2008年2月 4日 (月)

27年前の中学受験 -能力開発センターの追憶

2月1日に東京都、神奈川県の中学入試が解禁された。首都圏の国立、私立中学の受験者数は昨年より約千人増えて、5万3千人になり、過去最高に上る。都内では区立小学校の児童のうち3~4割が中学受験のために欠席、港区では7割が欠席した小学校もあるという。

もう27年前、昭和56年(1981年)のことになるが、私が通っていた姫路市内のある公立小学校では男子児童70名弱のうち、私立中学を受験したのは確か5人だった。うち私を含めて2人が私立中学に進学したのであった。近隣に私立中学がどれくらいあるかも、私立中の受験割合に影響するが、姫路近郊には今も昔も私立中学(男子)は淳心学院と白陵の2つしかないので、首都圏ほど大きく増加はしていないのではと思う。

■ 私立中学の受験準備はいつから始める?

私立中学を受験するには通常、進学塾に通わねばならない。小学校でやる授業だけでは不十分である。塾には学校の補習を行う学習塾と、私立中学受験準備をやる進学塾(進学教室)があるが、間違っても学習塾に通ってはならない。私が小学校のとき、はじめ塾に通わず中学受験をしようとした子がいて、わからない問題を小学校の担任の先生に聞きに行っていたのだが、担任の先生はきっぱりと「先生にはわからなくて、対応できないから、塾に通って、塾の先生に聞きなさい」と言われていた。それほど特殊なトレーニングが必要ということである。

私が小学生だった1970年代後半は、私立中学の受験準備は4年生の3学期から始めるというのが定説であった。進学塾に通いはじめ、小学校とは別の特殊な勉強を開始する時期という意味である。5年生の1学期になってからはじめる子とで、格段に合格率に差があったのである。

しかし、最近は、そうではないらしい・・・。東大助手時代の同僚が、子どもが中学受験のときにこんなことを言っていたことがある。

「私らの頃って、4年生の3学期から準備するって言われてたでしょう。あれ、今は3年生の3学期からなんだって・・・。塾に、遅いですよって言われちゃって」 

桜蔭中を受けると言っていたので、一般的な例ではないかも知れないが、受験準備をはじめる時期が3年生の3学期とは少し驚いた。子どもは大人が思っているほど悲愴感をもって、勉強しているわけではないけれども。

■ 「能力開発センター」に通い始める

1970年代後半、姫路近辺には私立中学の受験対策をする進学塾がほとんどなかった。地元で「長谷川塾」と呼ばれていた「英才教室」という進学塾があったが、塾に制服があるなどしきいの高い塾であった。1979年のことだったが、小学校を休ませて塾に来させている、つまり平日の朝から塾の授業をやっているということで、社会問題化して、全国ネットのニュースになっていたのである。全国ネットのテレビ取材に対して、長谷川塾の責任者が嬉々として持論を語っていた。

長谷川塾に通うのはちょっと・・・ということになり、折り込み広告を見て、4年生の夏に「能力開発センター(能開)」の公開模試を受けたのが、通うようになったきっかけである。

Img_2290s_2 HPによると能力開発センターは1976年6月、神戸に設立されたことになっている。私が模試を受けたのは1978年の夏で、通い始めたのが1979年1月だから、創立間もないころの話である。一流私立中学の受験対策が広告にあったが、進学実績はまだなかったはずである。

左は当時使っていた「能開オリジナル」のテキスト表紙と奥付(なぜか設立前の昭和49年発行となっている)

Img_2293s似たような名前の塾が多いが、今は株式会社ティエラコム(代表取締役社長 増澤空)が運営する神戸拠点の「能力開発センター」が私が通っていた塾である。大阪拠点の能開センター(以前の能開総合教育センタ  ー)という塾は(株)ワオコーポレーション(代表取締役社長 西澤昭男、以前の(株)教育総研)が運営する別の塾である。もともとは同じ(株)能力開発センターだったが、1979年に神戸と大阪に分裂したのである。新聞にも報道されていた。お金を大阪に集めるか、神戸に集めるかでもめて分裂したという噂だった。試験の優秀者一覧から大阪勢が急に消えて、姫路と神戸だけの優秀者が載るようになったことがあったのだが、こういった事情が背景にあったのだった。分裂のときの紳士協定があって、どちらか片方が教室を出した都道府県には、もう一社は出さないという取り決めがあるらしい。(と書いたが、2008年現在、石川県金沢市には大阪系ワオコーポレーションの経営する個別指導アクシスAxisと、神戸系のティエラコムの経営する能力開発センターの両方が比較的近い場所に校舎を構えている。紳士協定は有名無実化したのか?) 上のテキスト奥付の写真には分裂前の二氏の名前が並記されていて、かなり貴重な文献のような気がする。また、一橋能開センターは全く無関係の塾。

■ 体罰推奨の超スパルタ塾

「能力開発センター」という名称からは、最新の教育理論、知見に基づいて、科学的に能力を開発するという印象を受けるのだが、私が通っていた1970年代後半から1980年代の実態は、体罰容認、いや推奨の超スパルタ塾であった。

1学年上に能力開発センターから灘中学に入った人がいて、名をAさんというのだが、先生方がよくAさんの話題を出して、彼に続けとハッパをかけていた。その数年後、1987年、東大理1に入学したとき、新入生の世話をしてくださる1学年上の先輩に、聞き覚えのある名前の方がいて、灘高校出身であった。それがAさんだったのである。新入生が企画した飲み会で一緒になったので、Aさんに「小学校のとき、能開に通ってたんじゃ・・・」と話をふったら、「そうだよ、能開だったよ。下田先生が怖い先生でさー。俺、あの先生に殴られて、鼻血出したことあるもん」と思い出を語って下さった。

このとき、まわりにいた東大の新入生は「先生に殴られて鼻血なんて、ありえない、信じられない、しかも塾でなんて・・・」とひいてしまっていたので、東大生のほとんどはスパルタ式教育を受けたことがなかったのであろう。体罰がなくても、東大には入れるということを付言したい。

※ 下田先生というのは、下田空(むなし)先生で、名字は違っているが今の代表取締役社長増澤空氏である。

■ 今までの人生でいちばん怖い先生

塾の方針なのか、各学年に怖い先生が一人いて指導している風であった。私の学年は中田先生という極めて怖い先生がいて、スパルタ式の厳しい指導をされていた。私は、これまで色んな教育を受けてきたけれども、彼ほど怖い、よく怒る先生は今もって出会っていない。以下は決して、過去の指導を批判する目的ではなく、懐かしく思い出を語りたいという気持ちで書いている。どんな風だったかというと・・・。

授業中の私語、よそ見、あくびは言うに及ばず、頬杖をつく、イスの座り方が悪い、貧乏ゆすりをする、各科目の参考書を持参していない、社会の時間に地図帳を持参していない、国語の時間に国語辞典を机上に置いていないなどの理由で、授業の流れが止まり、黒板消しが投げつけられ、あるいは「何をやっとるか!お前は!」と怒鳴られ、前に呼び出されビンタされるのであった。

試験冒頭にある計算問題の間違い1つにつき、ビンタ1発・・・「一問でも間違えた奴、出てこい!」と怒鳴られて、一列に並ばされて、間違えた数だけビンタされる。

漢字の書き取り試験の間違い1つにつき、ビンタ1発・・・あらかじめ漢字の試験範囲が発表されているのだが、間違えた数だけビンタされる。

先生が辞書を引けという指示を出した後、国語辞典を箱からだして引いていた子がいたら、函から出すという動作が無駄だ!辞典を函になんか入れておくな!と辞典の函をビリビリに破られた子もいた。

ビンタだけではない。「力の5000題」というハードカバーの分厚い参考書があるのだが、それで頭を殴られることもあった。4冊重ねて「力の2万題じゃ」と殴られることもあった。これが広辞苑に変わることもあった。

忘れ物をすると油性マジックで顔に「地図忘れ」などと書かれたこともある。

授業中の雰囲気がよくないという理由で、クラス全員が正座させられたり、ビンタされたりしたこともある。言っても信じない人がいるのだが、トイレの床に正座させられた子もいた。

試験中に意味もなく、肩たたき棒の硬い方で、全員の頭を一発ずつ叩いていかれたこともあった。後で理由を聞くと、「先生が教室に入ってきたのを見て、みんなの姿勢が急に変わった」からだった。とにかく先生を見て急にうつむいて、試験に取り組んだのだという。全員のことではないが、全員が叩かれるのであった。

休み時間に「先生、腹が減った」と言ったという理由だけで、むちゃくちゃに怒られて、何発もビンタされたケースもあった。

ノートは大学ノートを使うのだが、たまにノートチェックが入って、使い方が悪いと、一人ずつ呼び出され、みんなの前でノートを破られるのであった。破られるというのはノート1冊丸ごと真っ二つに手で破られるのである。

なにかの理由で、前に筆箱をもって呼び出され、鉛筆をすべて折られ、定規を折られ、布製の筆箱をビリビリに破られた子もいた。

罰として、「能開名物」という名の宿題が出されることもあった。国語の参考書に載っている漢字の熟語一覧(数十ページ分)をすべて、大学ノートに書き写すというものであった。1週間あれば何とかなるが、夏期講習、冬期講習などのときには翌日までと言う期限で、出されるのであった。物理的に不可能な作業なのであるが、未完のまま提出すると、またビンタされるのであった。

「三権分立」を説明するのに、前方に座った3人を三角形に向かい合わせて、子ども同士、右手で右の子の左頬をつねらせ、左手で左の子の右頬をつねらせる。三角形を作るように、お互いに思い切り頬をつねらせて、「これが三権分立や!」と説明されていた。体罰だったのか、説明だったのか定かでない。

都道府県の県庁所在地を一人ずつ順番に言わせていって、間違った者には1発ビンタというのもあった。だから、1クラスの人数は47人前後だったのだろう。1クラスの人数は比較的多めで、選抜クラスでも40~50人、通常のクラスだとその倍近くいたのではと思う。それだけ流行っていたということだが、経営的にいえば効率がよいということになろう。休み時間に1クラスの人数を数えてた生徒がいて、先生に見つかり、「人数なんか数えてどうする、そんな暇があったら自習しろ」と怒鳴られて、ビンタされていたこともあった。1クラスの人数が多かったのは、塾として痛いところだったのかもしれない。

休日にイレギュラーに企画された「子ども懇談会」という集まりがあったのだが、数名が欠席して、他塾の模擬試験を受けたところ、先生に激高されて、みんなの前で、怒鳴り散らされていたこともある。後で思うに、「子ども懇談会」は他塾の模擬試験を受けさせないための企画だったんだろう。

家庭学習の指示も厳しいもので、「こたつで勉強するな!机で勉強しろ」、「受験生はテレビを見るな!」、「睡眠時間をけずって、夜12時以降まで勉強しろ!」などなど。たまに深夜に家に電話がかかってきて、これらのことをチェックされるのであった。

また、入試本番前日、試験直前の待機時間には勉強をするなという変わった指示が出されていた。あれをやっていない、これをやっていないと焦りだすだけだからというのが理由だったように思う。しかし、何回も入試を経験した身としては、この指示だけは誤りであると断言できる。入試前日、試験直前の待機時間にも必ず普段どおり勉強すべきである。試験前日、直前の1時間は、準備期間の1週間に匹敵するほどの学習効果がある。試験のとき、直前に学習したことは、それだけ鮮明に頭の中に残っているという意味である。脳科学的には記憶する部位が違うらしい。

下写真は、合格体験記、作文を集めた冊子。当時、「つばさ」の名前で定期的に配布されていた。こんなのが現存してるとは・・・と言われた。

Img_2296s_4

■ 能開五訓

塾としての能開の是として、「能開五訓」というのがあって、結構いいことが書いてあったのだが、検索しても出てこない。今は、能開五訓は引っ込めたようである。腑に落ちないので、うろ覚えのフレーズで検索して納得した。能開五訓は、旺文社の創業者、故 赤尾好夫氏の作った勉強十戒を一部引用したものであったようだ。Webが発達した現在、同じフレーズはますいので引っ込めたのであろう。以下は、能開五訓でなく、勉強十戒。

一.学習の計画を立てよう――計画のないところに成功はない
二.精神を集中しよう――集中の度合が理解の度合である
三.ムダをはぶこう――戦略の第一は時間の配分にある
四.勉強法を工夫しよう――工夫なき勉強に能率の向上はない
五.自己のペースを守ろう――他をみればスピードはおちる
六.断じて中途でやめるな――中断はゼロである
七.成功者の言に耳を傾けよう――暗夜を照らす灯だ
八.現状に対し臆病になるな――逃避は敗北である
九.失敗を謙虚に反省しよう――向上へのクッションがそこにある
十.大胆にして細心であれ――小心と粗放に勝利はない

今、考えると、塾の授業自体も十分役立ったと思うが、塾で強制される家庭での学習がかなり役にたったという気がする。社会や理科の宿題では、次の学習内容について、大学ノート10ページ分調べて書いてこいという指示が出されて、参考書を丸写ししてくることになるのだが、これがかなり自分の役に立った。小学生のうちは、書き写すという単純な作業でかなり身につくようである。ある程度、大人になれば参考書を黙読するだけで理解できるが、小学生のうちは読むだけでは自分の身につかないことが多い気がする。

自分の通った能力開発センターがスパルタだったためか、私は受験産業はすべてスパルタ方式なものとしばらくの間、誤解してしまっていた。大学受験準備で通った河合塾はリベラルなところだったし、体罰を容認する塾自体、当時でも少数派だったようである。

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コメント

最近は、天動説等を学ぶカリキュラムがなくなったようで、3年生からでも混乱がないから中学受験も過熱しているんですかね。
 
ところで、今まで生きてきて思うことがあります。好きで勉強したことが一番脳の奥に刻み込まれていて必要に応じてフラッシュバックがあるということです。最近、TVドラマで伊藤美咲さんが先生役で出演している「エジソン・・・」を観ていると、窓から飛んだり、ガスを吸引する等の危険な行為はしていないにしても、ほぼ同じ状況でした。正に問題児扱いであり、落第生でした。もっとも小学校には落第はなく無事卒業をしました。
 
当時は変なことを言っていたもんです。
何で、低学年と高学年で矛盾する内容を教えるんだ。混乱するじゃないか。と言ったり、この点において代表が「天動説⇒地動説」でした。でも、今となっては、両方を学んで良かったと感じています。というのは、(ちょっと大袈裟ですが・・・)地球の歴史を凝縮した学習をしている訳で考え方が身付くと思うからです。確かに答だけを覚えれば、ある程度の学校までは十分に進学できます。大学であっても同じでしょう。しかし、卒業後、仮に教授を目指さなくとも社会人になった途端に記憶だけではやって行けず困る人も多いのだと思いますし、自分も同じだったからです。
 
それが、小学校のときの経験で、役に立ったんです。そもそも、他に類を見ない、どうしようもないバカだった訳だし、独学で勉強した経験が生きていると思っているんです。高校も進学校でなく、大学への進学率も低い学校だったことから、独学で大学を受験したので、その経験も活きていると思っています。だからこそ、妙な人だと思われることも多いという欠点もあるので、困ることもあります。
 
受験戦争なんて言うものは、国全体の学力が下がれば、お金を使って勉強した人が優勢になります。昔の人はカリキュラムが高度で濃密ですが、その場合は、勉強しても天井が見つからず、運が作用したので、いろんな人が有名大学に進学していたのではないかと思い、その点に制度改革が必要なのではないかと教育の部外者の立場で感じています。

投稿: たぁ坊 | 2008年2月 4日 (月) 13時24分

能力開発センターに通ってます。
今はスパルタじゃありません。

投稿: ミッキー | 2008年2月21日 (木) 15時12分

わたしが、下田(増澤)空です。
今回の露本さんのブログ、めちゃめちゃ楽しく・懐かしく・恥ずかしく読ませてもらいました。「つばさ」の登場は、バックナンバーも無いくらい古い冊子で、それをいまだに持っておられのには、感動しました。

あなたの創業期の話は、ほとんど間違いないですね。
99%間違いないです。
そのころ私も30代前半の血気盛んな時でしたから「鼻血」が出るくらい殴ったこともありました。
今なら新聞沙汰でしょうね。

まさに生徒たちが、わたしたちに「暴力開発センターだ!」と、公言していて、わたしもニヤニヤしながら自他共に認めていたくらいですから、記述の通りですよ(笑い)

でも、思わずこの書き込みをしたくなったのは、塾の卒業生が、大きくなって、30年前?のことをしっかり記憶されていることに感動すらしたからです。
(追憶というタイトルが、胸にきました)

あれから30年も年月がたち、時代も私も組織も変わってきました。いや変わらざるを得なかったと言うのが正解です。

実は、いまでも卒業生からの連絡や、またテイエラコムに就職してる人たちがかなりいます。

公教育であれ民間の塾であれ、教育機関であることは違いはない。
だったら、公教育ではできない教育をしていきたいと私なりにこだわってきました。
社名変更もその一つです。

これからは、温暖化による地球の危機にたいして、教育が、どのくらいの影響を与えられ、貢献できるか、真剣に考えております。
ベトナムの南にカンザーという田舎にNGOのスタッフとマングローブ植林活動もささやかですが10年ほど行ってます。
驚かれたでしょう。
「暴力開発センター」が、「地球環境保護活動」なんです。
露本伊佐男さんの名前、よーく知ってますよ。
覚えてます。顔は忘れましたが露本伊佐男という名前。
失礼しました。

投稿: 増澤空 | 2008年3月13日 (木) 11時39分

驚きました。
下田(増澤)先生直々のご返信がいただけるとは思ってもみませんでした。ご返信ありがとうございます。怒られるかとヒヤヒヤしてました(笑)。

確か下田先生には定期的に受け持っていただいていたのではなくて、たまに別のクラスに出席したときなどに、不定期に受け持っていただいていたのだったと思います。でも、名前を覚えていただいていて本当に光栄です。

夏期講習のとき、下田先生が「おはよう」と声をかけられ、それに釣られて「おはようございます」ではなく、「おはよう」と答えてしまうと、敬語がなっとらんということで、血祭りにあげられるのでした・・・。私なぞは「ございます」のところだけ大きな声で言って失笑されてましたが。

大学生のとき、関西圏に残った能開時代の同級生が、能開でアルバイトしているのを聞いてうらやましく思ったものです。

小学校時代の思い出といえば、小学校そのもののものもあるのですが、能開のインパクトが強すぎて、いまだに能開時代の同級生と会うと、思い出話を語ってしまいます。

実家のダンボールをひっくり返すと、まだまだ1970年代後半の能開の文献が出てくると思います。また、折に触れ、ブログに書いてみたいと思います。

投稿: tsuyumoto | 2008年3月13日 (木) 18時45分

露本様

■ベトナムよりメールを差し上げます。ティエラコム・ベトナム駐在員
 の多久と申します。私は今ベトナムに11年滞在しています。

■露本様のブログの余りの面白さ、生徒として通っていた
 時の過去の追憶の記憶の凄さ、そして当時の臨場感溢
 れる描写に思わず大笑いしてしまいました。

 特に中田先生の若き日の姿が、今にもそこにあるような表現に、
 この時たまたまお茶を飲んでいたのを思わずPCに向かって
 吹き出しました。

 慌てて紙で拭きましたが、その後異常な音が出て来まして、
 PCが動かなくなり、すぐ電源を切りました。

 それで実は、深夜遅くの今のこの時間に連絡を差し上げる
 次第です。

■ティエラがベトナムのカンザーで行っているマングローブ植林活動
 は、毎年夏休みに日本の小・中学生たちを迎えて今年で9回
 目を迎えます。

 さらにはこれ以外にも、日本からまた私の知人の大学生たちもベ
 トナムの植林活動に参加してくれています。

 今までに彼等が植えたマングローブの植林本数をざっと合計しま
 すと、少なくとも1万本には達していることでしょう。

■地球環境を護るという大げさなことまでは求めませんが、少な
 くとも、大きな森が少ない今のベトナムで、マングローブが生い茂っ
 た森を創り、空気の汚いベトナムで少しでもキレイな空気を創ると
 いう意味では、大いに貢献していると思います。

■露本様もいつか、大学生の人たちを連れてベトナムを訪問して
 下さい。私がご案内致します。お待ちしています。
                           
                             多久

投稿: 多久 | 2008年3月14日 (金) 09時23分

初めまして。今日、子供に愛のビンタを放ち、なぜか能開を想い、サイト検索をしたら辿りつきました。
とても懐かしく読ませて頂きました。下田空様…当時熊本にいた私も、そのお名前は鮮明に覚えています。この塾を統べる方とは、一体どんな化け物だろう…と思っておりました。
私は、貴方より3才程年下になります。小学校2年生から(2年生は1人なので、3年生と授業を受けていた)能開に通った、熊本の長老でした。全国50位ランクにも、しばしば顔を出していたにもかかわらず、長い分、ある意味最高に叩かれた1人です。在学中推定5万発(;_;)
しかしながら恨みの念など無く、心から感謝を感じております。現在の、どんな事態においても折れずに楽しめさえする、タフでクレバーな自分を作ってくれたのは能開だからですm(_ _)m

しかしながら貴方に一言!!
熊本はさらに激しかったのでございます。 以下は、夏季講習などでの一日の宿題→参考書の漢字一覧は、なんと×5で書け!!ノートまとめは、1教科平均40ページ!!………特別コースにいた僕は、深夜1時に帰宅して、翌朝9時の授業まで、8時間しか無いのに、やり遂げた思い出があります。あれほどの満足感はなかったな~
ビンタも、×5発はよくありました。開成などの難関模試で、(徹夜特訓中の午前2時~)試験時間も短縮している中、終了後即採点で、満点ー自分の点数×5発ビンタなんてのも(-д-;)多い奴は、マジで1000発位打たれていた。2時間位はビンタタイム……朝の8時に1人泡吹いて、救急車で運ばれていったなぁ…塾は、やめなかったけど。
ただ、どうしても解せない小テストもありました。『明日は熊本弁50問テストをやるから、勉強してこい』とか…『うーばんぎゃあ』とはどういう意味?とか解けるか(怒)
それで100発も打たれた俺って…あと、いきなり『今から漢字50問テストをやる』って実は中国語テストで(チンジャオロースは漢字で?とかパンダは漢字で?)だったり寿司漢字テストで(鱒やら鮪やら)だったり…なぜ???

罰もバラエティに溢れていました。自由自在(厚い参考書)で15冊重ねて打たれる・壁にバックドロップ・ラリアット・机に6時間全員正座・市民会館3周ウサギ飛び・4車線道路の真ん中に寝てこい・歩道に並んで正座して、能開5訓を叫びながらアラーの神・ダースベーダーの剣・個室で鍵を閉められ、先生と対決等々。でも能開愛してますよ

投稿: やむやむ | 2008年6月14日 (土) 05時34分

懐かしさで思わず書き込みしてしまいました。私も小学校4年生から、姫路のOSビルにて受講していました。隣から聞こえるバレー教室の音楽に足でリズムをとりながら。。。無論、中田先生に叱られましたけどね。
下田空先生のお友達(確か大学の同期かしら?)小栗康平監督の「泥の河」を船上スクール?で観ました。あの当時いろんなイベントがありましたね。広島でのお泊まり夏季講習は、寝られないし(笑)私は女子でしたが、淳心コースを受講していました。厳しかったけど良い思い出です。現在、病院勤務ですが、ドクターで能開出身者はとても多いのですよ。

投稿: ゆうこりん | 2008年10月 7日 (火) 16時24分

30代半ばの2児の母です。
小学校は服装学院教室、中学は加古川教室でした。

中1息子の塾用テキストを検索していて見つけ、
涙を流して笑い転げました。ありがとうございます。
是非、子供に見せなくては・・・!

能開といえば、チャート式を使った予習型の勉強、ノート作り、
泣きながら、朝までかかって宿題をしていました。

でも、今の塾って復習型が主流みたいですね。ご丁寧に解答まで配布。日能研の先生曰く、復習型が最も効率がいいそうで・・・。

私自身、能開を卒業後、TOP高校に入学、
猛突進してきた能開のレールがぷつりとなくなり、
3年間、何をしてよいのかわからないまま三流私立大という
情けないパターンで無駄に時間を過ごしたんです。
受け身だったんでしょうね。

その反省から、
子供だけは、塾任せのレールに乗せっぱなしにしたくない・・・と
テキスト・参考書選びから、スケジュールの組み方まで、全部子供の手でさせています。確かに無駄だらけです。

今年になって、大手塾の講習会に行かせましたが、2日目に
「講師が教えて生徒は聞くだけ。時間とおかねのの無駄。ぬるすぎ、家で解答見てするほうがマシ、講師が生徒に媚びてる」と息子にダメだしされました。

こういうひねくれた感覚持ってしまったのも、私が能開への恨みつらみ?を日々笑い話として語り、今の塾の文句ばっかりいってるからでしょうね。参考書の引き方、ノートや式の書き方は徹底的に能開式です。

最近、東大式やカーネギー式とかのノートが流行ってますが、能開メソッドのノートが横に並んでてもいいのに・・・といつも思ってしまいます。。

★増沢先生、髪の長いすらりとしたやさしい先生でした・・・。
実は奥さんだったのかな・・・

投稿: 舞子 | 2009年1月26日 (月) 15時40分

突然の書き込みで失礼いたします。こちらの「能力開発センター」は東京で塾を経営していたことはないのでしょうか。実は、今を去ること30年ほど前、東京で「能力開発センター」の塾に通っていたことがあり、そのときにも合宿で「下田空先生」のご指導を受けたことがあるのですが。この「下田先生」には大変お世話になったので、あまりに懐かしく。もし間違っておりましたら、コメントを削除してください。よろしく御願いします。

投稿: tajima | 2009年6月20日 (土) 16時37分

すごく前の記事の書き込みですいません。みくしを見て書きました。私の時もあなたより5年あとですがすごかったです、竹田の算数がすごく暴力をふるっていやでした、中田はしらないです。少し前たまたまその時の関係者のかたに会う機会があり、その時の話をしたのですが、先生は若い人はみんな学生で、学生といったらいけなかったそうです。私は今姫路にすんでますが、すごい仕事をしてらっしゃるのですね。またよければコメントをお願いします、そちらは寒いですか?姫路も今は郊外にショッピングセンターが沢山出来、姫路駅は人が少なくなって商店街はこまってます、

投稿: | 2010年12月 7日 (火) 23時58分

教室は福岡校でした。
昭和55年くらい。
能開五訓のひとつめは覚えてるんですが…。
あまりまじめに先生の言葉を繰り返してなかったので忘れてしまいました。

一、おはよう、こんにちはの挨拶は心を込めてしよう。
  礼儀のない人間は社会の輪から取り残される。

投稿: ZERO | 2011年9月 5日 (月) 02時54分

姫路で小3から中3まで。OSビル、第三不動ビル、など。
小学部で、算数の大村に殴られた。くそ面白くなかった。
そうか、個人的な趣味?方針?ではなく、殴れと指示していたのか。

中学部は殴られないので、数学が面白くなった。
俺も西高に入った。能開から大人数が合格したが、皆入っただけ。
後伸びしない能開のやり方はいただけない。

若気の至りだと?なめんな。殴ってやるから出てこい。
40歳過ぎて子を持つようになり、そう思います。

投稿: 能開に7年。 | 2012年10月16日 (火) 20時32分

大人が小学生を殴ってニヤニヤ。

怯えた人間を育てる。
萎縮した人間を育てる。
人目を気にする人間を育てる。
やらされる人間を育てる。
短気な人間を育てる。
ひとを馬鹿にする人間を育てる。

地域トップ校へ入る。
秋葉の加藤が生まれる。

投稿: 「鼻血」が出るくらい殴ったこともありました。 | 2012年10月17日 (水) 10時34分

今思えば、あの中田先生のビンタ攻撃はやり過ぎだったかもしれないけど、後伸びしない、とか、やらされる人間を育てる、とかいうのはいわれのない非難では…本人次第ではないですかね。

投稿: taco | 2012年10月24日 (水) 19時44分

恐怖でやらせると、恐怖から逃れた瞬間にやらなくなる人は多いみたいですね。

投稿: きょん | 2012年10月30日 (火) 18時29分

下田先生が体罰奨励の超スパルタだったなんて驚きました。

私も小4の時(昭和52年)と中3の時(昭和57年)、神戸の文化服装学院の校舎で、土日に授業をしていた応力開発センターに通っていました。

私は下田先生が生徒を叩くのを見た記憶は無いですね。
下田先生は小中学校の先生よりかなりソフトなイメージでした。

投稿: じん | 2014年9月15日 (月) 22時24分

大変懐かしいお話です。今となっては、本当にいい思い出になってます。
下田先生のことは、時々思い出したりしていました。とても、愛情を感じる授業でした。
日曜日に、神戸文化服装学園で授業を受けていました。
小六の時従妹とともに通いました。カップヌードルの夜食をクラス全員おごってもらっていました。
暴力なんてありませんでしたね。


投稿: ルル子 | 2014年11月27日 (木) 22時26分

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受信: 2008年3月 3日 (月) 22時29分

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