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2011年1月28日 (金)

「城陽小学校創立100周年」を巡る若干の回想

今年の正月、姫路に帰省したときに城陽小学校の横を車で通ったら、「創立100周年」の横断幕がかかっていた。城陽小学校は私の母校である。

そういえば、20年ほど前に創立80周年やっていたから、そういう時期だろう。80周年の時は、実家がまだ城陽小の校区内にあったので、寄付を求められたりしたそうだが、今は校区外に引っ越してしまったので(姫路駅の高架化に伴って道路が拡張され、実家のあった場所は道路になった)、そういう情報にも疎くなった。

私は1981年3月卒である。1学年は130名余り。城陽小学校は別段、進学校という訳ではないのだが、我々の学年では、小生が淳心学院を経て、東大理Ⅰに入り、同級生だった池内君が姫路西高から京大工学部に、野村君が淳心から神戸大学医学部、途中で転校していったが池田君が京大工学部に入っている。城陽小学校の1学年から、東大1名、京大2名、神戸大学医学部1名というのはなかなかの実績だと思う。

以下は小学校時代の回想。

北校舎、南校舎、職員室のある棟は昔のままなのか、一部建て替えられたのか詳しくないが、同じ場所に同じような校舎が建っていた。私が通っていた頃は最上階(3階)の教室が雨漏りするというので、一室空き部屋になっていた。教室は4クラス分あったが、1学年3クラスだったので、ちょうどだったのである。

私の通っていた頃と大きく違うのは、校門前の道路である。前は幅が4~5メートルほどの狭い道路が1本通っていただけだったが、向かいに裁判所と拘置所ができてから、その道路は歩行者専用になって、裁判所側に2車線の新しい道路が設置されていた。

いま、裁判所、拘置所がある場所は、私が小学校低学年のときは国鉄官舎で、国鉄職員の古い木造住宅が並んでいた。空き家も多かったように思う。住所は北条だが、登下校の班は「カンシャ」だった、「カンシャ」が官舎だとわかったのはだいぶ後である。官舎の前は何があったのか知らないが、使われていない不気味なコンクリート製の煙突が何個か林立していた。知人に話しても、煙突を覚えていないというのだが、確かにあったのである。車が通らなくて安全ということから、この官舎内の未舗装の土の道が通学路であった。

1976年の台風17号のときには、官舎内の溝があふれ、泥水で溝と道の区別がつかなくなって、溝にはまらないように注意しながら、登校したのだった。結局、休校になり、来た道をひやひやしながら帰宅した。

官舎がなくなって更地になり、その跡地に拘置所を移転する話が持ち上がったのが、6年生のとき(1980年)だった。拘置所が来ると風紀が悪くなるというので、校区を挙げて、拘置所建設反対運動が行われたのだった。結局、小学校との間に緩衝緑地やら上述の道路を設けるということで落着し、裁判所と拘置所が姫路城付近から移転してきたらしい。

裁判所が移転してきてから、おそらくマスコミ関係者が近辺をうろうろして、そのアンテナに引っかかるようになったからであろう。城陽小がトピックス的にテレビなどに取り上げられることが多くなったように思う。十数年前、日テレの「ズームイン朝」を見ていたら、城陽小学校から生中継でクラブ活動の紹介をしていて驚いた。

小学校低学年のとき(1975年か1976年)、航空写真を撮るということで、運動場に人文字を作ったことがある。校長先生は朝礼台に立ち、西の方から低空飛行で来るヘリコプターを見守った。ヘリは低空飛行でまっすぐに来る。進路には高い煙突がある。いくらなんでも避けるだろうと思っていたら、ヘリは煙突に気づかないのである。ぶつかる直前だった。校長先生が朝礼台の上からマイクで大声で「危ない!」と叫んだら、ヘリは右に急旋回してすんでのところで煙突をよけて、アプローチをやり直したのだった。運動場はざわついた。「校長先生が危ないって言ったから避けたけど、あれぶつかってたら」、先生同士が話していた、校長先生は朝礼台の上でひきつった顔をして、震えていたようである。ヘリが煙突にぶつかっていれば、運動場に墜落してたかもしれず、そうすれば児童も巻き込まれて最悪の惨事である。こんなことがあってから、校長先生は防災上、官舎内にある煙突の撤去を強く働きかけて、早めに撤去されることになった。

6年生のとき職員室の向かいにある会議室に入ったことがある。壁に歴代の校長先生の写真が掲げられていた。その中で一人、軍人顔というのであろうか、怖い顔つきをした先生が一人いた。その先生だけまったく顔つきが違うのである。大西要と名が記されていた。同級生と「この先生、戦争の時に小学校で亡くなった先生や」と言い合った。地元で語り継がれる有名な話だ。詳細は、ここの「城陽国民学校長 大西要氏の殉職」にある。第二次世界大戦中、よく起こった話と聞くのだが、敵機に空襲されて危険な中、いわゆる御真影を取りに行って、被弾して亡くなられた。御真影というのは天皇陛下の写真である。「もう危ないから無理やと周囲が止める中、取りに行った」と伝え聞いている。そういう時代だったのであろう。

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