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2011年1月29日 (土)

研究室で実験生活をするときの小さな注意事項

大きな注意事項としては、安全防災関係、特に「ひとり実験禁止」などが挙げられるが、ここでは本に書いてないような比較的小さな注意事項。

  1. 実験の時は、秒表示のある時計を持つこと。携帯電話を時計代わりにしてもよいが、秒の表示は必須。ドコモdocomoの携帯は現在、秒の表示ができないものがほとんどなので、別に秒表示のある時計を持つ必要がある。(ドコモの携帯は何で秒表示ができないのか謎である)
  2. 実験、考察に使用するPCの年月日、時刻は正確に合わせておく。秒まで合わせることはないが、分単位まで正確に。一般にPCの時刻は数分ずれていることが多く、混乱を生みかねない(経時変化の測定で実験ノートとずれるなど)。
  3. 実験ノートには、各操作の時刻まで記入する。混合して30分待ちのような実験で、時刻をノートに書かずに時計を眺めている人が多いが、これはNG。
  4. PC制御の分析機器を用いることが多いが、PCでの「ファイル名」は実験ノートに記録しておく。また、ファイル名が指定できる場合は、情報を的確に有するファイル名にすることが望ましい。そうしないと後で対応がわからなくなることがある。特に他人が見たとき。
  5. 分析装置では、操作者(オペレータ)名、サンプル名、測定条件などを入力できるものが多い。面倒だからと空欄にする人が少なくないが、これらをきちんと正しく入力しておく。特に、前に入力してあるものをそのままにししない!間違いのもとなので、これは絶対NG
  6. 油性ペン(名前書きペンのような細いものでよい)を必ず持つこと。ガラス器具、容器、袋などに後から情報を書こうとしたり、情報を書いた紙片の上に置いて区別したりすると間違えることが多い。油性マジックで直接、書くこと。
  7. 保管用のサンプル瓶の表記は物質名だけでなく、氏名、年月日を記載する。月日だけでなく年も必要。原則西暦の下2桁(平成表記の時はHをつける)。他人が実験ノートと照合できるようにする。
  8. 土足禁止でない部屋でも、靴の泥、砂はできるだけ落としてから入室すること。
  9. キムワイプで鼻をかまない。ティッシュを使いましょう。
  10. 実験室の蛍光灯が点滅したり、切れたりしたら、必ず交換する(交換を施設部に依頼する)。蛍光灯が点滅したまま、2,3日、放置する研究室は何らかの問題を抱えていることが多い。

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2011年1月28日 (金)

「城陽小学校創立100周年」を巡る若干の回想

今年の正月、姫路に帰省したときに城陽小学校の横を車で通ったら、「創立100周年」の横断幕がかかっていた。城陽小学校は私の母校である。

そういえば、20年ほど前に創立80周年やっていたから、そういう時期だろう。80周年の時は、実家がまだ城陽小の校区内にあったので、寄付を求められたりしたそうだが、今は校区外に引っ越してしまったので(姫路駅の高架化に伴って道路が拡張され、実家のあった場所は道路になった)、そういう情報にも疎くなった。

私は1981年3月卒である。1学年は130名余り。城陽小学校は別段、進学校という訳ではないのだが、我々の学年では、小生が淳心学院を経て、東大理Ⅰに入り、同級生だった池内君が姫路西高から京大工学部に、野村君が淳心から神戸大学医学部、途中で転校していったが池田君が京大工学部に入っている。城陽小学校の1学年から、東大1名、京大2名、神戸大学医学部1名というのはなかなかの実績だと思う。

以下は小学校時代の回想。

北校舎、南校舎、職員室のある棟は昔のままなのか、一部建て替えられたのか詳しくないが、同じ場所に同じような校舎が建っていた。私が通っていた頃は最上階(3階)の教室が雨漏りするというので、一室空き部屋になっていた。教室は4クラス分あったが、1学年3クラスだったので、ちょうどだったのである。

私の通っていた頃と大きく違うのは、校門前の道路である。前は幅が4~5メートルほどの狭い道路が1本通っていただけだったが、向かいに裁判所と拘置所ができてから、その道路は歩行者専用になって、裁判所側に2車線の新しい道路が設置されていた。

いま、裁判所、拘置所がある場所は、私が小学校低学年のときは国鉄官舎で、国鉄職員の古い木造住宅が並んでいた。空き家も多かったように思う。住所は北条だが、登下校の班は「カンシャ」だった、「カンシャ」が官舎だとわかったのはだいぶ後である。官舎の前は何があったのか知らないが、使われていない不気味なコンクリート製の煙突が何個か林立していた。知人に話しても、煙突を覚えていないというのだが、確かにあったのである。車が通らなくて安全ということから、この官舎内の未舗装の土の道が通学路であった。

1976年の台風17号のときには、官舎内の溝があふれ、泥水で溝と道の区別がつかなくなって、溝にはまらないように注意しながら、登校したのだった。結局、休校になり、来た道をひやひやしながら帰宅した。

官舎がなくなって更地になり、その跡地に拘置所を移転する話が持ち上がったのが、6年生のとき(1980年)だった。拘置所が来ると風紀が悪くなるというので、校区を挙げて、拘置所建設反対運動が行われたのだった。結局、小学校との間に緩衝緑地やら上述の道路を設けるということで落着し、裁判所と拘置所が姫路城付近から移転してきたらしい。

裁判所が移転してきてから、おそらくマスコミ関係者が近辺をうろうろして、そのアンテナに引っかかるようになったからであろう。城陽小がトピックス的にテレビなどに取り上げられることが多くなったように思う。十数年前、日テレの「ズームイン朝」を見ていたら、城陽小学校から生中継でクラブ活動の紹介をしていて驚いた。

小学校低学年のとき(1975年か1976年)、航空写真を撮るということで、運動場に人文字を作ったことがある。校長先生は朝礼台に立ち、西の方から低空飛行で来るヘリコプターを見守った。ヘリは低空飛行でまっすぐに来る。進路には高い煙突がある。いくらなんでも避けるだろうと思っていたら、ヘリは煙突に気づかないのである。ぶつかる直前だった。校長先生が朝礼台の上からマイクで大声で「危ない!」と叫んだら、ヘリは右に急旋回してすんでのところで煙突をよけて、アプローチをやり直したのだった。運動場はざわついた。「校長先生が危ないって言ったから避けたけど、あれぶつかってたら」、先生同士が話していた、校長先生は朝礼台の上でひきつった顔をして、震えていたようである。ヘリが煙突にぶつかっていれば、運動場に墜落してたかもしれず、そうすれば児童も巻き込まれて最悪の惨事である。こんなことがあってから、校長先生は防災上、官舎内にある煙突の撤去を強く働きかけて、早めに撤去されることになった。

6年生のとき職員室の向かいにある会議室に入ったことがある。壁に歴代の校長先生の写真が掲げられていた。その中で一人、軍人顔というのであろうか、怖い顔つきをした先生が一人いた。その先生だけまったく顔つきが違うのである。大西要と名が記されていた。同級生と「この先生、戦争の時に小学校で亡くなった先生や」と言い合った。地元で語り継がれる有名な話だ。詳細は、ここの「城陽国民学校長 大西要氏の殉職」にある。第二次世界大戦中、よく起こった話と聞くのだが、敵機に空襲されて危険な中、いわゆる御真影を取りに行って、被弾して亡くなられた。御真影というのは天皇陛下の写真である。「もう危ないから無理やと周囲が止める中、取りに行った」と伝え聞いている。そういう時代だったのであろう。

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2011年1月25日 (火)

子どものひきつけ(熱性けいれん)とそのドタバタの記録

わが子たち、これまで計3回ほど熱性けいれん(ひきつけ)を起こした。いずれも大したことはなくて、今ではピンピンしている。最近のものからその記録。似たような症状のお子さんの参考まで。

■ 今年の元日 (下の女の子、1歳9ヶ月)

大晦日から上の男の子(4歳)が風邪気味で少し具合が悪かった(12月27日から咳)。新年あけてすぐの午前0時半に金沢を車で出て姫路までナイトドライブで帰省。午前6時過ぎ、姫路の実家着。少し寝た後、午後2時ころ、上の子に38℃台の熱があり、具合悪そうなので、近くの姫路市休日・夜間急病センターに車で行ったが、超満員で、受診をあきらめて帰宅。注射嫌いの上の子は「もう治ったから」と、すでに機嫌がよかった。実際、治ったようだった。

今度は、夕方6時ころから、下の女の子(1歳9ヶ月)がぐったりしていて元気がない。熱も上がってきた。大晦日から軽く咳をしていたのである。休日・夜間急病センターの夜の部は午後9時からと聞いていた。

午後8時前、熱が38.4℃、手足が冷たいのでまだまだ上がるはずと母。午後8時ちょうど、1回、わーと大泣きした後、両手両足をバタバタけいれん。目はどこを見ているかわからず、意識はない。前回(2010年9月)は1分でおさまったが、今回はなかなかおさまらない。前回より長いのであせる。時計を見つつ、5分たってもおさまらないので、休日・夜間診療センターに電話して、そう伝えると、「救急車を呼んでください」。電話をとった人が、誰かに聞きに行った後、そう言った。

119番で救急車を呼ぶと、「すぐに救急車を出します」 住所・番地、名前を伝えるだけで、位置は特定できたらしい。

通報後の午後8時7分、やっとけいれんは治まった。7分は長く感じた。口から泡を吹いて、少し嘔吐したのか泡に嘔吐物が少量ついていた。手足バタバタの周期は終わりになると遅くなっていき、最後におさまった。けいれんは治まったが、意識がなく、手足を動かそうとしない。心配だった。

8時10分頃、救急車到着。痙攣は既に治まった後である。隊長が様子を観察した後、「前になったことありますか?熱は?」など、持病の有無、けいれんになるまでの経過を聴取する。

部屋着のまま、同行すると不都合もあるので、私(父)は携帯・財布・免許証やらを持参し、軽く着替えてから行った。母は母子手帳、保険証などを痙攣中に準備して、すぐいけるようにしていた。上の子は、祖父母、伯父にまかせて、実家待機(いい子にしてたそうである)。

この時間、小児科は日赤しかないといわれ、姫路赤十字病院へ救急車で。私が生まれた病院である(移転前だが)。意外と、救急車はよく揺れた。サスペンションがきいていない貨物車のような感触である。

午後8時30分ころから処置。小児科のK医師。いつもそうなのか元日だからなのか医師は全員、若い人。医師は「泣いたか?」、「けいれんでどこを動かしていたか」、「前にもけいれんはあったか?」、「何分続いたか?」、「持病はあるか?」などを問うた。答えは「泣いてから痙攣」、「両手両足」、「昨年9月、そのときは1分でおさまった」である。

先生は前頭部を触った後、体のあちこちを押したりつねったり。わが子はそのとき、両手両足をぐったりとさせて、動かそうとしないので不安であった。目の焦点も定まっていなかった。顔色も青白かった。

聴診、鼻汁の採取後、「処置しますので中待合室で待っていてください」と言われて待機。大泣きする声が何度も聞こえた。このときに、手の甲の血管に点滴用のチューブを装着して、髄膜炎検査のための髄液採取が行われたようである。(2009年5月の上の子の時は髄液採取は頭部のCT検査の後だったが、今回はいきなり行われたようである)

処置が終わると、回復室のベッドに寝かされていた。顔色はよくなったようである。21時からソルデム(ブドウ糖)を200mLを点滴。点滴に2時間かける予定で、その頃には検査結果が出るでしょうという話だった。ベッドの上で泣くのだが、アクビ娘の唄を耳元で歌ってやると泣きやむ(笑)。

22時15分、検査結果が出た。RSウィルスのみ陽性。風邪による熱性けいれんであった。白血球数も10700と少し増えているが風邪のせい。その他の検査数値も正常値から若干上下しているものがあるが、問題ないようである。

経過から見て、帰宅して様子見してくださいという話だった。この結果、点滴もここで中止。また、痙攣が出るとか、神経症状が出るとかがあれば、再び来るように言われる(もし、入院するなら、24時間か48時間様子を観察するそうである)。熱が下がらなくても、車に乗せて金沢に戻っても問題ないでしょうと言われた。

手足を動かさなかったのは、けいれん直後に手足が一時的に麻痺することがあるため。もう動かしているのでOK。

処方薬はアスぺリンシロップ0.5%(5mg/mL)、ムコダインシロップ5%(50mg/mL)。先生に言って坐剤(アルピニー坐剤、38.5℃以上で使用)を追加してもらった。支払いは6140円。ATMみたいな自動支払機でカード払いまでできるようになっていた。

タクシーを呼んで帰宅した。

少し元気そうな声を出すようになったので、翌日1月2日夜、車で金沢に戻ってきた。

結局、後から考えると、救急車を呼ばなくても、後で受診すればよかったケースかもしれないが、けいれんが終わった後も、ぐったりしていたので、いろいろ検査をしてもらってよかったと思う。

髄膜炎検査のため、髄液の採取をすると、しばらく歩きにくいようである。上の子の場合もそうだったが、1週間くらい歩こうとしなかったり、歩きにくそうにしていた。これは、髄液採取のためであった。知らないと痙攣の後遺症かと心配しかねないなと思った。

妻は、Hibワクチンの予防接種を済ませているのに髄膜炎の検査は要らなかったのではないかとブツブツ言っていたが、Hib以外にも髄膜炎の原因となる菌は少なくないそうなので検査しておいて貰ってよかったと思う。

■ 2010年9月23日(下の女の子、1歳6ヶ月)

前日からこの日まで1泊2日で、ナガスパに行ってきたのだった。この日はアウトレットモールをまわった後、車で金沢に戻ってきた。

前日、かなり暑かったが、ナガスパの遊園地で元気よく遊んでいた。「熱中症に気をつけましょう」と放送されていたような暑い時期である。

その夜から機嫌が悪い。体が熱く、熱があるようである。暑気(あつけ)でも入ったかなどと考えていた。昔の人はよく暑気と言っていたが、軽い熱中症のことだろうか。

これで帰ってくれば良かったのだが、ベビーカーに寝させておけば同じなどと考えて(よくないな)、そのままアウトレットモールなどに出かけたのだった。

金沢に帰着後の午後7時57分、両手をバタバタさせて、けいれんを始めた。このとき、初めて見たが、意志を持って両手をバタバタさせているのとイマイチ区別がつきにくい。ただ目はどこを見ているかわからない。40秒ほどで口に泡をふいた。1分ほどで手のけいれんが終わって、目はどこを見ているかわからない状態でぐったり。呼びかけたりしていたら、2分半後にニコッと笑顔になったかと思うと、ぐったりとして寝た。

上の男の子(そのとき3歳)は、妹のけいれんと両親の慌てた様子に「なんか怖くなってきた」、「お兄ちゃんも一緒に病院にいくからねー、がんばるんよー」といつになく優しく妹に声をかける。

自家用車で金沢の夜間診療所へ。ベテラン看護婦、一目見て、「熱性痙攣か」。小児科のS先生に、旅行でナガスパに行って帰ってきたら云々というと、「熱があるのに、あちこち連れまわしたんじゃろ」、「アウトレットも行ってきたんやろ」と図星の指摘をされる。

座薬で熱はおさまり、一安心。

■ 2009年4月10日(上の男の子、2歳5ヶ月)

下の子がこの年の3月に生まれたので、母の実家で、母と下の子と一緒に暮らしていた。実家の近所の保育園にも一時的に通っていた。私は仕事なので金沢。

ずっと風邪が治らず、熱が上がったり下がったりを繰り返し、この日午後7時16分と午後7時53分に熱が39℃以上と携帯にメールをもらっていた。すると、午後9時47分に、携帯に電話がかかってきて、ひきつけを起こして、「救急車で運ばれた」と連絡を受けた。田舎のことなので、救急車が来ると大騒ぎになったそうである。

けいれんが始まったのは、午後9時13分。午後9時16分に119番に電話したが、そのときには、けいれんはおさまっていたそうだ。けいれんの時間は2分以内ということか。搬送後の午後10時にはすやすや眠っていたという。

私は帰宅後、自家用車で、搬送された七尾の能登総合病院へ。深夜に到着。点滴用のチューブが頑丈に手首に着けられ、高い柵付きのベッドに子どもが寝かされていた。

検査数値はこんな感じ
  順に  搬送直後   翌11日午前10時
  白血球 /ml   23700   42900
  CRP(炎症の程度) mg/dl  0.6   11
  HGB g/dl   11.7   11.8
  PLT 10^4/μl   46.3   44.6

翌日、子どもの目が覚めると、立ち上がり、「(お父さんが)おった」などという。「何でいるの」と言いたげだった。一緒にいなかった父が、今ここにいる理由がわからないようである。私は横のソファに借りた布団を敷いて寝ていた。

医師が来て、「炎症の数値が上がっているので、腰椎穿刺で髄液を採取して、髄膜炎の検査をします・・・。でも、元気ですね」と言われた。「脊髄液を採取する前に、脳に腫瘍や奇形があると腰椎穿刺ができないので、腰椎穿刺できるかどうか、頭のCTをとって判断します。」

CT検査室に父(私)と一緒に入った。子どもが動かないよう、私は鉛の入ったエックス線防護服を着て、子どもの下あごを手で押さえていた。看護婦だと子どもが泣くからか、看護婦の被ばく量をできるだけ減らしたいからかどうか知らないが、CTのそばで子どもを押さえる役は父の仕事であった。結果、脳に腫瘍や奇形はなく、腰椎穿刺をすることに。

腰椎穿刺は終わり、寝かされた後、11時過ぎ、抗生剤(セフォタックス)の点滴開始。抗生剤が効いたのか、検査の数値は2~3日で回復し、4月15日に退院。

結局、どこかにばい菌が入っていたようである。腰椎穿刺したため、1週間ほど歩きにくそうにしていた。腰が痛いのか・・・。

生まれたばかりの1ヶ月の下の子もいたため、病院と実家の父母交代で往復するのは大変であった。

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2011年1月 9日 (日)

Panasonicの長寿命白熱電球は通常タイプより早く切れる。再現性あり(n=3)。

2009年10月29日のブログ『白熱電球を長寿命タイプと普通タイプの両方に交換してみる』、および2010年4月15日のブログ『長寿命タイプの白熱電球が、普通タイプよりも早く切れてしまった。定格寿命内にもかかわらず。』で、同じメーカーの長寿命タイプの白熱電球と標準タイプの白熱電球を同一条件で使用すると、なぜか長寿命タイプの方が早く切れてしまうことを書いたのだった。これについて、メーカーに苦情を言って、長寿命タイプの新品を取り寄せて比較してみたのだが、長寿命タイプの方が早く切れることについて、再現性があるようである。

長寿命タイプはパナソニックPanasonicの長寿命ミニ電球(LDS100V54WWL)、定格寿命4000時間のもの。標準タイプはPanasonic(National)のミニクリプトン電球(LDS100V54WWK)、定格寿命2000時間のもの。

同じ電圧で同じ環境で、同時に点灯・消灯する条件で、交換日と切れた日を記録した結果が、下表のとおりである。1日当たり、おおむね8~10時間点灯している。

表1 白熱電球を同一条件で使用した場合の寿命

Jumyo

長寿命タイプの2個目、3個目は、それぞれ1個目、2個目の短寿命に関して、Panasonicのお客様相談センターに苦情を言って、送ってもらったものなので、製品のロットが悪いとか、電器店での取扱状況が悪いということではないはずである。それでも早く切れている。

100ボルトタイプの白熱電球なので、100ボルト以上の電圧(例えば105ボルトなど)が来ている場合、寿命が短くなることはよくあるとしても、標準タイプの方が定格通り使用で来て、ほぼ倍の価格の長寿命タイプが早く切れるのは納得できないことである。

どんな品質管理をして出荷しているのかも疑問だが、今でも店頭で倍近くの値段で安いものより早く切れてしまう「長寿命タイプ」が並んでいるのを見ると、何とかならないものかと思う。

我が家は、電池は全て金パナだし、掃除機、冷蔵庫、加湿器、炊飯器、エアコン、自動パン焼き機と、Nationalブランド、Panasonicブランドの製品をたくさん愛用しているだけに少し残念である。

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