2011年7月23日 (土)

慢性的な腰痛が針灸で軽くなった話 

2006年9月21日付の「腰痛が痛い」でも書いた。長年、慢性的な腰痛と、たまのぎっくり腰に悩まされていたが、2006年の夏から2007年にかけて、慢性的な腰痛がひどくなっていた。だいぶ前の話であるが、その腰痛が、鍼灸治療で軽くなった話を記しておきたい。今のところ、軽くなったままキープしている。

当時のブログにはこう書いていた。

左股関節後ろ側~でん部~腰部に痛み。夜に調子がよく、朝起きたときが一番痛む。骨盤を浮かして寝返りを打つ動作、左の腰を後ろにそらす動作をすると痛む。まだ痛い。7月末に日帰りで、松本に出張したのだったが、直江津・長野間の在来線ロングシートで居眠りしてから、同じ部分に筋肉痛っぽい違和感があった。大事にせずに8月中スポーツジムに通って、筋トレを続けたのが長引いた理由かもしれない。腰痛ベルト、テーピングをするとかなり楽になる。夜に調子がよいことから、血行不良が主因かもしれない。

日常的な生活、仕事に大きな不都合はなかったのだが、腰が慢性的に痛かった。症状としては

  • 左のでん部~腰が痛い。骨の上ではなく左横の筋肉部。痛い場所は深部のような感じ。左股関節の裏側が痛がゆいのが最初の症状だった。体表からはどこが痛いと指示しにくい。左腰の骨盤のグリグリの下のような気がしたり、上のような気がしたり。
  • 左腰を後ろにそらす動作が痛くてできない。
  • 仰向けで腰を浮かす動作も痛くてできない。
  • 仰向けで思い切り背伸びをすると痛いので、背伸びを気持ちよくできない(これはかなり悲惨に感じた)。
  • うつぶせで指圧を受けるとき、左の腰は強く押されると「痛い」と叫んでしまうほどなので、弱めにやってもらっていた。弱めなら心地が良い。
  • 朝起きた時が辛く、夜は比較的楽である。
  • 早歩きはできるが、走るのが怖い。左腰の激痛が怖くて走れなかった。酔った勢いで軽く走ろうとしたら、左足をひっかけて転びそうになった。
  • 以前なら2~3kmくらいなら歩いていたが、腰をかばうためか、周囲の筋肉がだるくなるので、ついタクシーを拾ってしまう。
  • スーパー銭湯にある電気風呂(座ると腰に低周波の電気が流れる)に入ると、以前なら気持ちが良かったのに、痛くて我慢できない状態。

で、評判のいい柔道整復師のうわさを聞いて、3回ほど通ったのだが、軽くはならなかった。そこで受けた施術はベッドの上にあおむけに寝た状態で、下半身をゆっくりと大きく左右にひねる操作をした後、よくある低周波の電気を当てる治療であった。

そのうち治るだろうと思って放っておいたが、全然、よくならない。そんな状態が半年以上続いた2007年の3月頃だった。出張の時、部屋にマッサージを呼んで、指圧してもらっていると、例によって、左の腰を押されたときに、「痛い、痛い」と叫んでしまった。中年男性のマッサージ師、「ああ」と納得し、「一度、鍼(はり)したらどうですか?私、同じ症状で鍼で治ったんです」と言う。同じ症状の人が治ったと言っているのは心強い。以前、はりきゅうで効果がなかったことがあったが、あれはぎっくり腰直後の急性期だった。慢性の症状だと違うかもしれない。

鍼灸院は近所に散在しているが、どこに行けばいいのかわからない。家か勤務先に近いところで、繁盛しているところがいいだろうと考え、患者さんが出入りしているのを頻繁に見かけるある鍼灸治療院に目星を付けた。

電話をして初診の予約を入れた。この鍼灸院は保険がきくらしい。初診時に書類を渡され、かかりつけの医師に腰痛の症状を話して、鍼灸による治療が適切である旨の所見を書いてもらうようにいわれた。最初の2回程度は初心者向けの軽い施術をするという話だった。

初診料がいくらだったかは忘れたが、2回目以降の費用は1回700円であった。7000円ではない、700円。保険の効く分が1700円×0.3で510円、保険の効かない治療の分が190円で、合計700円。期待していなかったが破格の安さであった。「保険の効く鍼灸院が少ないのは、保険で決められた1700円じゃバカバカしくてやってられないから」だそうだ。普通は保険外で1回3000~5000円みたいな話だった。700円の徴収もユニークで治療後、出口に置いてある缶に自分で700円を入れて行くスタイルだった。お釣りも自分で取っていく。診療の予約も、待合室に置かれたスケジュール表に勝手に書いていく。スケジュール表は予約で一杯である。

カーテンで仕切られたスペースが3つあり、それぞれに高さを変えられるベッドが備え付けられている。ベッドに敷くバスタオルは自分で持参する約束であった。男性は大きめのバスタオルを2枚持参するように言われた。

施術は3つのベッドで並行して進んでいく。施術は以下のようなもの。

靴下、シャツも脱いで、パンツだけのスタイルになり、仰向けに寝て待つ。バスタオル一枚は下に敷いて、もう一枚はパンツの上にかけておけばよい。しばらく安静にして待つ。

まず、脈を見られる。脈の様子で逆になることもあるが、通常は仰向けが先で、後で横向きになる。仰向けで、鍼を眉間、肩、腹、腿、すね、足の甲に打たれる。その場所で開封した新品のハリを1mm程度の深さに打つそうである。ハリの入ったまま寝て待つ。

しばらく待つと、別の施術者(女性)が灸を持って現れ、ハリの入っている部分に火を着けた灸を近づける。近づけてしばらくすると熱くて我慢できなくなるので、「はい」と合図して止めてもらう。同じことを全身に行う。

また、しばらく待つと、初めの施術者が戻ってきて、ハリを抜き、今度は横向きの体勢でハリを打っていく、首筋からふくらはぎまで。今度は痛い部分がメインである。

その後、同じように灸の人が現れて、同じように灸を近づけて、我慢できない程度まで灸で温める。初めの施術者がハリを抜いたら終了。

週2回通ってくださいと言われたが、そもそも予約が取れないので、ほぼ週1回のペースで約半年間通った。

効果を感じたのは3回目くらいであった。腰が痛いので、ズボンを履くのにも気合が必要だったのだが、施術後、左足をあげてズボンを履くときに痛みが軽くなっているのに気付いた。施術直後に痛みが軽くなるのは、それまでよくあったことで、翌日とか数時間後に痛みが元に戻ってしまうことが多かった。そのときも、すぐに痛みが戻るのではと思ったが、痛みの軽い状態は続いた。

施術5回目で痛みがほぼ半分、10回目で痛みがほぼ1割になった。意外であった。上に箇条書きにした症状はほぼなくなった。

3月から鍼灸院に通い始めたが、7月初旬に出張先でマッサージを受けた時には、左腰をいくら押されても、もう痛くなかった。

今でも、腰痛はあるが、2006年ごろに悩まされた症状は軽快している。もう再発はないと信じたい。

通った鍼灸院の話によると、自然治癒力を引き出しているのだそうだ。針と灸とどちらが効いたかは判断しにくいが、灸を当てられるときに、次どこに熱いのを当てられるだろうと神経をウズウズさせたのも良かったような気がする。

私に、針灸を勧めてくれたホテルの男性マッサージ師は、私と同じような体格、体型の男性であった。同じような体格の同性の人が、同じような症状に聞いたというのが、大事なのかもしれない。

また、別の人によると、筋肉の多い男性の方が、針灸による自然治癒力を引き出し易いという話だった。

腰痛に悩む人は多いが、慢性的な腰痛が整形外科に通って治ったという話はあまり聞かない。よく聞くのは整体に通って良くなったと言う話だが、良い整体院を探し出すまでが一苦労である。基本的に整体師は無資格の世界なので、整体院は選ぶ必要がある。正直、針灸に通うまで、そんなに効くとは思っていなかったのだが、治ったのは意外であった。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2011年6月 5日 (日)

定格寿命よりも早く切れてしまう  東芝ネオボールも・・・

Panasonicの長寿命型の白熱電球が通常タイプよりも早く、しかも定格寿命内に再現性よく切れてしまうことを下記のように3回ほど、このブログでグチグチと取り上げたのだった。

Panasonicの長寿命白熱電球は通常タイプより早く切れる。再現性あり

寿命タイプの白熱電球が、普通タイプよりも早く切れてしまった。定格寿命内にもかかわらず

白熱電球を長寿命タイプと普通タイプの両方に交換してみる

しかし、東芝の電球型蛍光ランプ、ネオボールZリアルPRIDE(プライド)まで定格寿命内に切れてしまった・・・。以下はそのメモ。

定格寿命より早く切れたのは、型番EFA15EL/10-PD、JANコード357652、定格寿命12,000時間、点滅性能40,000の品。

切れた後、振ると中でカラカラ音がしている。

使用開始年月日は2009年8月1日、切れているのが見つかったのが2011年6月4日、引き算すると使用したのは672日間である。風呂の脱衣場に使用していたので、使用時間はどんなに長くても一日6時間程度である。せいぜい4,000時間、定格寿命の3分の1で切れてしまったことになる。仮に一日18時間弱使用していたら、定格寿命に達することになるかもしれないが、風呂場の脱衣場という性格上、それはあり得ない。

価格は1個1500円前後で安くはない。白熱電球を使うよりは電気代で得をしているが、定格寿命の3分の1以下しか持たなかったのは非常に残念である。

おそらく、蛍光灯とか電球の寿命なんて、測っている人は少ないので(一般家庭で、私のように使用開始日を記録している方が珍しい)、誰も定格寿命分、持たなかったことに気づかず、苦情も言っていないんだろうなと思う。

各社が、どんな風に寿命について品質管理をしているのかはなはだ疑問である。実際の寿命を確認してたらそれまで出荷できないので、加速試験を行うはずだが、その加速試験が当てにならないのだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

東大駒場時代の同級生のことなど

先日、18年ぶりに大学時代の友人と会った。教養課程で同じクラスだった男である。東京大学理科1類では進学振り分けがあるため、1~2年生の教養学部時代(昔で言う一般教養課程、パンキョー)と3年生以上の専門課程をまったく別のクラスで過ごす。3年生以降では、1~2年時の仲間がバラバラだ。教養課程は当時、1クラス60数名で、一部の実験、実技科目以外、授業に出ても出なくても良いような妙な雰囲気があった。

その教養課程のクラスメートの今が話題になったのだが、大卒後、約20年。皆さんご活躍のようである。結構な割合で大学などに残って、アカデミックポジションを得ている。

同じクラス出身でアカデミックポジション等にいる同窓生をリストしてみた(個人情報の関係もあるので、Web上に本名、大学入学年度等が記されている人に限った)。民間企業で活躍中の同窓も多いが、企業の場合、Web上には個人名を公表しないようなのでリストにはしていない。

クラス名:1987年度(昭和62年度)入学 東京大学教養学部理科1類22組。略称'87 S1-22組である。

なお、敬称は略してます。同級生ということもあります。

■ アカポス

川勝康弘 宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部 准教授 リンク

佐久間哲哉 東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学研究系 准教授 リンク

鈴木正太郎 長岡技術科学大学工学部機械系 准教授 リンク

高橋浩樹 広島大学大学院理学研究科(総合科学部) 准教授 リンク

等々力賢 東京大学大学院工学系研究科システム創成学専攻 助教 リンク

中山一昭 信州大学理学部 数理・自然情報科学科 准教授 リンク

舟橋正浩 香川大学工学部材料創造工学科 教授 リンク

■ 官庁

寺家克昌 経済産業省東北経済産業局地域経済部長 リンク

■ その他

堂前宣夫 (株)ファーストリテイリング/ユニクロ 上席執行役員 リンク

大学4年のときにS1-22組の同窓会があったが、そのときの幹事が確か堂前氏だったと思う。いつの間にかユニクロの偉い人におさまっていた・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年2月11日 (金)

『ノルウェイの森』再訪

先日、時間を作って映画『ノルウェイの森』を見に行った。石川県では金沢フォーラスの一館で夕方17:30からの上映のみになっていた(2月11日まで)。観客は20名弱、カップルは半分ほど、あとはお一人様。

村上春樹の原作小説を読まずに、この映画を鑑賞しても、感じるものは少ないのではと思った。以下は思いつくままに雑感・・・・・・・。

私が原作の『ノルウェイの森』を読んだのは1988年のことである。周囲にいた3名の友人に薦められてだった。手元に残してある単行本は上下巻とも1988年8月5日第18刷発行(1987年9月10日第1刷発行)で、まだ消費税がない時代、一冊定価1000円だった。金色の帯が付けてあり、

上巻には、「いい尽くされた言葉より 心に残る この物語を・・・・・・」、

「この小説はこれまでに僕が一度も書かなかった種類の小説です。そしてどうしても一度書きたかった種類の小説です。これは恋愛小説です。ひどく古ぼけた呼び名だと思うけれど、それ以外にうまい言葉が思いつけないのです。激しくて、物静かで、哀しい、100パーセントの恋愛小説です。  村上春樹」

下巻には「静かに、そして激しく 哀しみの余韻 再び・・・・・・・」、

「彼らの求めたものの多くは 既に失われてしまっていた。もうそこから進むこともできず、戻ることもできない、暗い森の奥に永遠に・・・・・・・・・。限りない喪失と再生を描く 今いちばん激しい100パーセントの恋愛小説。」。

この帯にも歴史があって、初版はカバーと同じ色のものがつけてあったが、途中で金色に変わったそうだ。

上巻は赤一色のカバー、題字だけ緑色。下巻はその逆、緑地に赤い題字。「赤一色」のデザインはいろんな意味で出版社が嫌がるものらいしいが、作者の村上春樹氏の意向でそういうデザインに決まったという。いわゆるクリスマスカラーである。どこの書店に出かけても、これでもかというくらい平台にうず高く積まれていた。

原作の小説は「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。」で始まる。作者が18年前のことを回想するシーンである。37歳、18年前のこと・・・、小説を読んだ頃には想像しにくいタイムスケールだったが、もう小説を読んでから22年も経ってしまった・・・。

『ノルウェイの森』にはゴシック体で書かれた文が一つだけ存在する。前後に1行余白をとった上で、

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

と記されている。主題の表現として、すごくわかりやすい。

このゴシック体の文、単行本だと右頁の途中に登場するのだが、文庫本だと右頁の冒頭にいきなり登場する。冒頭だと余白の有無がわかりにくいし、ゴシック体が冒頭にあるとタイトルのようである。単行本のように、頁の途中に登場してこそ、このゴシック体が生きてくるなと思った。

作者自身が「100パーセントの恋愛小説」と記しているけれども、この小説の読後感は、太宰治の『人間失格』を読んだ時のそれに似ていた。夏目漱石の『こころ』を読んだ時にも似ていたかもしれない。とにかく人が次々と死んでいく、自殺で。当時、ニュースステーションに出てた小宮悦子が、何に対するコメントだったのか忘れたが、「最近、若い人によく読まれている小説で次々と人が亡くなっていくのがあって・・・」と驚いたことを語っていた。時期的に『ノルウェイの森』だったのだと思う。

小説の題名『ノルウェイの森』は、ビートルズの"Norwegian Wood"からきている。ビートルズの曲名は原題通り"Norwegian Wood"と記されていることもあれば、『ノルウェイの森』の邦訳が記されていることもある。

"Norwegian Wood"を『ノルウェイの森』と訳すのは誤訳で、正しくは、ノルウェイ材、すなわちノルウェイ産の木材、ノルウェイ材でできた家具とすべきであるという説がある。ビートルズの曲が出回った頃から話題になっていたのだが、小説『ノルウェイの森』がベストセラーになったときに、この議論が再燃したのである。woodは木であり、森の意味はなく、複数形のwoodsとした場合にのみ森の意味があるからということらしい。

確かに、"Norwegian Wood"の歌詞を見ると、"She showed me her room.  Isn't it good, Norwegian wood?"なので、森ではあまりにも詩的で、木材でないと意味がとれない。しかし、村上春樹自身も『村上春樹 雑文集』の中の小品「ノルウェイの木を見て森を見ず」に書いていたのだが、歌詞に使われた"Norwegian Wood"に正確な日本語訳を当てるのは不可能なことである。言葉には複数の意味があって、それぞれのニュアンスを裏に持つので、曖昧なところが出てくる。両方の曖昧な意味を持っているということでいいのではと思う。

私の愛用する小学館の英和中辞典PROGRESSIVEにはwoodの4番目の意味としてこうある。

4 ((しばしば~s))樹林、森、森林(▼(1)forestよりも小さいもの。(2)「一つの森」をさすのにwoodもwoodsも用いる。このwoodsは((英))では複数扱いであるが、((米))では単数扱いにする) There is a wood(s) near the house.  家の近くに森がある。

woodでも森の意味はあるようである。両方をさしていて、一語への邦訳は不能ということでいいのであろう。

ちなみに"Norwegian Wood"の最後の部分

"So I lit a fire.  Isn't it good, Norwegian wood?"なのであるが、「だから、僕は放火したんだ」と訳して、女性がいなくなったので、ノルウェイ材でできたアパートに放火したことにしている訳詞家もいた。タバコに火を付けたという訳が主流であるが、ドラッグに火をつけたという解釈もある。

上述の村上春樹「ノルウェイの木を見て森を見ず」では、村上春樹氏自身が<ジョージ・ハリスンのマネジメントをしていた会社に勤務していた女性からパーティーで聞いた話>として、"Norwegian Wood"は"Knowing she would"のもじりであるとしている。「彼女と最後まで行けるのを知っていて」の意味である。インモラルな直球的表現ができない時代だったからもじったという説である。

さて、映画『ノルウェイの森』の話に戻る。

菊地凛子は演技派の女優であるが、20歳前後の「直子」を演ずるのは少し無理があるように感じた。心を病んだ直子を演じるのは、はまり役のような気もするが、映画の冒頭、高校の制服を着て、登場した菊地凛子には違和感をもった。

永沢さん、レイコさん、緑は小説を読んだときに持ったイメージそのままの感じであった。

映画では、小説で重要な位置を占める野井戸の話が割愛されていた。落ちると誰にも気づかれなくなる深い野井戸・・・。

映画のエンドロールが出ると、多くの映画では半分以上の人が退席してしまうのだが、『ノルウェイの森』の観客はマナーがいいのか、余韻にひたっているのか、エンディングロールが終わるまで、席を立たない人がほとんどだった。

エンディングロールを見ていると、ビリヤード監修、レコード監修、さらに学生運動監修まで、監修者が表示されていた。時代考証が大事なのであろう。

ロケを行ったと思われる、早稲田大学、神戸大学の寮、六甲学院高校・中学校なども名称表示されていた。

DVDになってから見ようかとも思っていたが、ほぼ2時間邪魔の入らない状態で、大画面の前に身を置いて、どっぷり映画の世界に浸るのもなかなかよいものであった。映画の世界に入り込めるという意味では、DVDでテレビ画面で見るのと、映画館でスクリーンで見るのとでは格段の違いがあった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月28日 (金)

「城陽小学校創立100周年」を巡る若干の回想

今年の正月、姫路に帰省したときに城陽小学校の横を車で通ったら、「創立100周年」の横断幕がかかっていた。城陽小学校は私の母校である。

そういえば、20年ほど前に創立80周年やっていたから、そういう時期だろう。80周年の時は、実家がまだ城陽小の校区内にあったので、寄付を求められたりしたそうだが、今は校区外に引っ越してしまったので(姫路駅の高架化に伴って道路が拡張され、実家のあった場所は道路になった)、そういう情報にも疎くなった。

私は1981年3月卒である。1学年は130名余り。城陽小学校は別段、進学校という訳ではないのだが、我々の学年では、小生が淳心学院を経て、東大理Ⅰに入り、同級生だった池内君が姫路西高から京大工学部に、野村君が淳心から神戸大学医学部、途中で転校していったが池田君が京大工学部に入っている。城陽小学校の1学年から、東大1名、京大2名、神戸大学医学部1名というのはなかなかの実績だと思う。

以下は小学校時代の回想。

北校舎、南校舎、職員室のある棟は昔のままなのか、一部建て替えられたのか詳しくないが、同じ場所に同じような校舎が建っていた。私が通っていた頃は最上階(3階)の教室が雨漏りするというので、一室空き部屋になっていた。教室は4クラス分あったが、1学年3クラスだったので、ちょうどだったのである。

私の通っていた頃と大きく違うのは、校門前の道路である。前は幅が4~5メートルほどの狭い道路が1本通っていただけだったが、向かいに裁判所と拘置所ができてから、その道路は歩行者専用になって、裁判所側に2車線の新しい道路が設置されていた。

いま、裁判所、拘置所がある場所は、私が小学校低学年のときは国鉄官舎で、国鉄職員の古い木造住宅が並んでいた。空き家も多かったように思う。住所は北条だが、登下校の班は「カンシャ」だった、「カンシャ」が官舎だとわかったのはだいぶ後である。官舎の前は何があったのか知らないが、使われていない不気味なコンクリート製の煙突が何個か林立していた。知人に話しても、煙突を覚えていないというのだが、確かにあったのである。車が通らなくて安全ということから、この官舎内の未舗装の土の道が通学路であった。

1976年の台風17号のときには、官舎内の溝があふれ、泥水で溝と道の区別がつかなくなって、溝にはまらないように注意しながら、登校したのだった。結局、休校になり、来た道をひやひやしながら帰宅した。

官舎がなくなって更地になり、その跡地に拘置所を移転する話が持ち上がったのが、6年生のとき(1980年)だった。拘置所が来ると風紀が悪くなるというので、校区を挙げて、拘置所建設反対運動が行われたのだった。結局、小学校との間に緩衝緑地やら上述の道路を設けるということで落着し、裁判所と拘置所が姫路城付近から移転してきたらしい。

裁判所が移転してきてから、おそらくマスコミ関係者が近辺をうろうろして、そのアンテナに引っかかるようになったからであろう。城陽小がトピックス的にテレビなどに取り上げられることが多くなったように思う。十数年前、日テレの「ズームイン朝」を見ていたら、城陽小学校から生中継でクラブ活動の紹介をしていて驚いた。

小学校低学年のとき(1975年か1976年)、航空写真を撮るということで、運動場に人文字を作ったことがある。校長先生は朝礼台に立ち、西の方から低空飛行で来るヘリコプターを見守った。ヘリは低空飛行でまっすぐに来る。進路には高い煙突がある。いくらなんでも避けるだろうと思っていたら、ヘリは煙突に気づかないのである。ぶつかる直前だった。校長先生が朝礼台の上からマイクで大声で「危ない!」と叫んだら、ヘリは右に急旋回してすんでのところで煙突をよけて、アプローチをやり直したのだった。運動場はざわついた。「校長先生が危ないって言ったから避けたけど、あれぶつかってたら」、先生同士が話していた、校長先生は朝礼台の上でひきつった顔をして、震えていたようである。ヘリが煙突にぶつかっていれば、運動場に墜落してたかもしれず、そうすれば児童も巻き込まれて最悪の惨事である。こんなことがあってから、校長先生は防災上、官舎内にある煙突の撤去を強く働きかけて、早めに撤去されることになった。

6年生のとき職員室の向かいにある会議室に入ったことがある。壁に歴代の校長先生の写真が掲げられていた。その中で一人、軍人顔というのであろうか、怖い顔つきをした先生が一人いた。その先生だけまったく顔つきが違うのである。大西要と名が記されていた。同級生と「この先生、戦争の時に小学校で亡くなった先生や」と言い合った。地元で語り継がれる有名な話だ。詳細は、ここの「城陽国民学校長 大西要氏の殉職」にある。第二次世界大戦中、よく起こった話と聞くのだが、敵機に空襲されて危険な中、いわゆる御真影を取りに行って、被弾して亡くなられた。御真影というのは天皇陛下の写真である。「もう危ないから無理やと周囲が止める中、取りに行った」と伝え聞いている。そういう時代だったのであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年1月25日 (火)

子どものひきつけ(熱性けいれん)とそのドタバタの記録

わが子たち、これまで計3回ほど熱性けいれん(ひきつけ)を起こした。いずれも大したことはなくて、今ではピンピンしている。最近のものからその記録。似たような症状のお子さんの参考まで。

■ 今年の元日 (下の女の子、1歳9ヶ月)

大晦日から上の男の子(4歳)が風邪気味で少し具合が悪かった(12月27日から咳)。新年あけてすぐの午前0時半に金沢を車で出て姫路までナイトドライブで帰省。午前6時過ぎ、姫路の実家着。少し寝た後、午後2時ころ、上の子に38℃台の熱があり、具合悪そうなので、近くの姫路市休日・夜間急病センターに車で行ったが、超満員で、受診をあきらめて帰宅。注射嫌いの上の子は「もう治ったから」と、すでに機嫌がよかった。実際、治ったようだった。

今度は、夕方6時ころから、下の女の子(1歳9ヶ月)がぐったりしていて元気がない。熱も上がってきた。大晦日から軽く咳をしていたのである。休日・夜間急病センターの夜の部は午後9時からと聞いていた。

午後8時前、熱が38.4℃、手足が冷たいのでまだまだ上がるはずと母。午後8時ちょうど、1回、わーと大泣きした後、両手両足をバタバタけいれん。目はどこを見ているかわからず、意識はない。前回(2010年9月)は1分でおさまったが、今回はなかなかおさまらない。前回より長いのであせる。時計を見つつ、5分たってもおさまらないので、休日・夜間診療センターに電話して、そう伝えると、「救急車を呼んでください」。電話をとった人が、誰かに聞きに行った後、そう言った。

119番で救急車を呼ぶと、「すぐに救急車を出します」 住所・番地、名前を伝えるだけで、位置は特定できたらしい。

通報後の午後8時7分、やっとけいれんは治まった。7分は長く感じた。口から泡を吹いて、少し嘔吐したのか泡に嘔吐物が少量ついていた。手足バタバタの周期は終わりになると遅くなっていき、最後におさまった。けいれんは治まったが、意識がなく、手足を動かそうとしない。心配だった。

8時10分頃、救急車到着。痙攣は既に治まった後である。隊長が様子を観察した後、「前になったことありますか?熱は?」など、持病の有無、けいれんになるまでの経過を聴取する。

部屋着のまま、同行すると不都合もあるので、私(父)は携帯・財布・免許証やらを持参し、軽く着替えてから行った。母は母子手帳、保険証などを痙攣中に準備して、すぐいけるようにしていた。上の子は、祖父母、伯父にまかせて、実家待機(いい子にしてたそうである)。

この時間、小児科は日赤しかないといわれ、姫路赤十字病院へ救急車で。私が生まれた病院である(移転前だが)。意外と、救急車はよく揺れた。サスペンションがきいていない貨物車のような感触である。

午後8時30分ころから処置。小児科のK医師。いつもそうなのか元日だからなのか医師は全員、若い人。医師は「泣いたか?」、「けいれんでどこを動かしていたか」、「前にもけいれんはあったか?」、「何分続いたか?」、「持病はあるか?」などを問うた。答えは「泣いてから痙攣」、「両手両足」、「昨年9月、そのときは1分でおさまった」である。

先生は前頭部を触った後、体のあちこちを押したりつねったり。わが子はそのとき、両手両足をぐったりとさせて、動かそうとしないので不安であった。目の焦点も定まっていなかった。顔色も青白かった。

聴診、鼻汁の採取後、「処置しますので中待合室で待っていてください」と言われて待機。大泣きする声が何度も聞こえた。このときに、手の甲の血管に点滴用のチューブを装着して、髄膜炎検査のための髄液採取が行われたようである。(2009年5月の上の子の時は髄液採取は頭部のCT検査の後だったが、今回はいきなり行われたようである)

処置が終わると、回復室のベッドに寝かされていた。顔色はよくなったようである。21時からソルデム(ブドウ糖)を200mLを点滴。点滴に2時間かける予定で、その頃には検査結果が出るでしょうという話だった。ベッドの上で泣くのだが、アクビ娘の唄を耳元で歌ってやると泣きやむ(笑)。

22時15分、検査結果が出た。RSウィルスのみ陽性。風邪による熱性けいれんであった。白血球数も10700と少し増えているが風邪のせい。その他の検査数値も正常値から若干上下しているものがあるが、問題ないようである。

経過から見て、帰宅して様子見してくださいという話だった。この結果、点滴もここで中止。また、痙攣が出るとか、神経症状が出るとかがあれば、再び来るように言われる(もし、入院するなら、24時間か48時間様子を観察するそうである)。熱が下がらなくても、車に乗せて金沢に戻っても問題ないでしょうと言われた。

手足を動かさなかったのは、けいれん直後に手足が一時的に麻痺することがあるため。もう動かしているのでOK。

処方薬はアスぺリンシロップ0.5%(5mg/mL)、ムコダインシロップ5%(50mg/mL)。先生に言って坐剤(アルピニー坐剤、38.5℃以上で使用)を追加してもらった。支払いは6140円。ATMみたいな自動支払機でカード払いまでできるようになっていた。

タクシーを呼んで帰宅した。

少し元気そうな声を出すようになったので、翌日1月2日夜、車で金沢に戻ってきた。

結局、後から考えると、救急車を呼ばなくても、後で受診すればよかったケースかもしれないが、けいれんが終わった後も、ぐったりしていたので、いろいろ検査をしてもらってよかったと思う。

髄膜炎検査のため、髄液の採取をすると、しばらく歩きにくいようである。上の子の場合もそうだったが、1週間くらい歩こうとしなかったり、歩きにくそうにしていた。これは、髄液採取のためであった。知らないと痙攣の後遺症かと心配しかねないなと思った。

妻は、Hibワクチンの予防接種を済ませているのに髄膜炎の検査は要らなかったのではないかとブツブツ言っていたが、Hib以外にも髄膜炎の原因となる菌は少なくないそうなので検査しておいて貰ってよかったと思う。

■ 2010年9月23日(下の女の子、1歳6ヶ月)

前日からこの日まで1泊2日で、ナガスパに行ってきたのだった。この日はアウトレットモールをまわった後、車で金沢に戻ってきた。

前日、かなり暑かったが、ナガスパの遊園地で元気よく遊んでいた。「熱中症に気をつけましょう」と放送されていたような暑い時期である。

その夜から機嫌が悪い。体が熱く、熱があるようである。暑気(あつけ)でも入ったかなどと考えていた。昔の人はよく暑気と言っていたが、軽い熱中症のことだろうか。

これで帰ってくれば良かったのだが、ベビーカーに寝させておけば同じなどと考えて(よくないな)、そのままアウトレットモールなどに出かけたのだった。

金沢に帰着後の午後7時57分、両手をバタバタさせて、けいれんを始めた。このとき、初めて見たが、意志を持って両手をバタバタさせているのとイマイチ区別がつきにくい。ただ目はどこを見ているかわからない。40秒ほどで口に泡をふいた。1分ほどで手のけいれんが終わって、目はどこを見ているかわからない状態でぐったり。呼びかけたりしていたら、2分半後にニコッと笑顔になったかと思うと、ぐったりとして寝た。

上の男の子(そのとき3歳)は、妹のけいれんと両親の慌てた様子に「なんか怖くなってきた」、「お兄ちゃんも一緒に病院にいくからねー、がんばるんよー」といつになく優しく妹に声をかける。

自家用車で金沢の夜間診療所へ。ベテラン看護婦、一目見て、「熱性痙攣か」。小児科のS先生に、旅行でナガスパに行って帰ってきたら云々というと、「熱があるのに、あちこち連れまわしたんじゃろ」、「アウトレットも行ってきたんやろ」と図星の指摘をされる。

座薬で熱はおさまり、一安心。

■ 2009年4月10日(上の男の子、2歳5ヶ月)

下の子がこの年の3月に生まれたので、母の実家で、母と下の子と一緒に暮らしていた。実家の近所の保育園にも一時的に通っていた。私は仕事なので金沢。

ずっと風邪が治らず、熱が上がったり下がったりを繰り返し、この日午後7時16分と午後7時53分に熱が39℃以上と携帯にメールをもらっていた。すると、午後9時47分に、携帯に電話がかかってきて、ひきつけを起こして、「救急車で運ばれた」と連絡を受けた。田舎のことなので、救急車が来ると大騒ぎになったそうである。

けいれんが始まったのは、午後9時13分。午後9時16分に119番に電話したが、そのときには、けいれんはおさまっていたそうだ。けいれんの時間は2分以内ということか。搬送後の午後10時にはすやすや眠っていたという。

私は帰宅後、自家用車で、搬送された七尾の能登総合病院へ。深夜に到着。点滴用のチューブが頑丈に手首に着けられ、高い柵付きのベッドに子どもが寝かされていた。

検査数値はこんな感じ
  順に  搬送直後   翌11日午前10時
  白血球 /ml   23700   42900
  CRP(炎症の程度) mg/dl  0.6   11
  HGB g/dl   11.7   11.8
  PLT 10^4/μl   46.3   44.6

翌日、子どもの目が覚めると、立ち上がり、「(お父さんが)おった」などという。「何でいるの」と言いたげだった。一緒にいなかった父が、今ここにいる理由がわからないようである。私は横のソファに借りた布団を敷いて寝ていた。

医師が来て、「炎症の数値が上がっているので、腰椎穿刺で髄液を採取して、髄膜炎の検査をします・・・。でも、元気ですね」と言われた。「脊髄液を採取する前に、脳に腫瘍や奇形があると腰椎穿刺ができないので、腰椎穿刺できるかどうか、頭のCTをとって判断します。」

CT検査室に父(私)と一緒に入った。子どもが動かないよう、私は鉛の入ったエックス線防護服を着て、子どもの下あごを手で押さえていた。看護婦だと子どもが泣くからか、看護婦の被ばく量をできるだけ減らしたいからかどうか知らないが、CTのそばで子どもを押さえる役は父の仕事であった。結果、脳に腫瘍や奇形はなく、腰椎穿刺をすることに。

腰椎穿刺は終わり、寝かされた後、11時過ぎ、抗生剤(セフォタックス)の点滴開始。抗生剤が効いたのか、検査の数値は2~3日で回復し、4月15日に退院。

結局、どこかにばい菌が入っていたようである。腰椎穿刺したため、1週間ほど歩きにくそうにしていた。腰が痛いのか・・・。

生まれたばかりの1ヶ月の下の子もいたため、病院と実家の父母交代で往復するのは大変であった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年12月23日 (木)

生まれて初めて肛門科を受診

早生まれなので、今年が本厄だった。別段、病気もせず、無事一年を終わりそうだったが、最後の最後に肛門科に行く羽目になった。こういう話は、興味のない人には気持ち悪いだけなので、読まずにおくことを勧める。

■ 受診するまで

先週、15日(水)あたりから、肛門の周囲に今までにない痛みがあって座りにくい。痛まない角度を探せば大丈夫だが、かなりの違和感だ。肛門周辺が何か少しだけ出っ張ってるような気もする。くしゃみや咳をしただけでも痛む。こんなことははじめてであった。

出血もないので様子を見ていると、金曜には寒気、倦怠感まで出てきた。インフルエンザにかかったときの様に、太ももから足先にかけて軽く疼痛があって寒い。熱はないし、風邪の症状もない。いつもは暑がりなのにである。とにかく、冷え症の人のように、足先が冷えて、仕方がなかった。

自分で肛門周りを見てみると、外観上、何の病変もないように見える尾骨側(6時の方向)を押すと痛む。しかも内部に小さく硬いしこりのようなものがいくつかある。それを押すと痛いのである。

土曜には、『プリザエース坐剤』を買ってきて、3回ほど使ったが、症状はあまり変わらなかった。

日曜になっても、人より暑がりな私が、人より寒がっている。熱はない。風邪の症状もない。肛門は相変わらず痛い。ということで、翌日には肛門科に行こうと決めた。肛門科の評判なんて、私らの世代だと口コミじゃあまり伝わらない。「肛門科」を診療科目に掲げた医院で、家から近いところをネットで探して、比較的近くにあるA胃腸科外科に行くことにした。こういうときには「肛門科」を掲げていない医院には行っても仕方がないと思う。

■ 初診で切開へ

12月20日(月)、朝一で行ったが、休み明けだったので少し混んでいた。他の患者さんは付き添いのいる高齢者がほとんどだった。

順番が来て、症状を伝えると、「そこでお尻を診ます」と隣の処置室の黒いベッドへ。左を下にして横向きに寝る(左側臥位)。ズボンと下着を膝まで下げて、お尻だけを出した状態。先生が指(見ていないが指と思う)を突っ込んでくると、激痛が・・・。苦しんできた痛みをさらに数倍にした痛みである。尾骨方向、左右、いろんな方向に動くたび、「痛い、痛い、痛い・・・」と痛みを訴えた。触診やら、その痛がり方やらでわかったのか、「膿(うみ)がかなりたまっています」との診断。

肛門の病気について何も調べずに受診したので、想定の範囲外の診断だった。後でわかったが「肛門周囲膿瘍(のうよう)」という名である。正直、それまで知らなかった名だ。名だけは仰々しいので、膿みがたまっているの表現の方が適切な気がする。これが進行したものが、痔ろうである。

先生は「切開して出しますか?」と、また想定の範囲になかった質問を続ける。「切開するとどうなるんですか」と聞くと、「ベンを出した後は、周りを消毒薬で拭いてもらう必要がある」。「抗生物質でたたいて、しばらく様子をみるのもいいけど」とも言われ、そちらを選びかけるが、「でも、いずれ切開せないかんようになるよ」と言われたので、その場で切開することを選択、外来での簡単な手術となった。

「では準備しますから」

同じ体勢のまま、ズボンにタオルをかけられ、腰の下にガーゼを敷かれ、さらに術野がよく見えるように、看護婦さんに、けつっぺたを広げられてテープで固定された。

まず、麻酔なのだがこれが一番痛かった。親知らずを抜いた経験から、麻酔は最初の一瞬はズキンと痛むが、その後は麻酔が効くので痛くないという思い込みがあった。それが、今回は麻酔を打っている10~20秒の間、ずっとそのズキンが続いていたのである。しかも動いてはいけないので辛い。看護婦さんが二人がかりで体重をかけて下肢を動かないように押さえていたし、私は「痛い、痛い」といいながら、ベッドのへりを思い切り握って力を逃がしていたのである。「あと、5ミリリットル追加して」の声が聞こえた。この5ミリリットルも後で注射されたようだが、このときは麻酔が効いて感覚がなかった。麻酔薬はリドカイン注射液(1%)を合計15ミリリットル。

「メス5番」の声が聞こえた。切開に入るらしい。いろいろ処置しているようであるが、本人に様子はわからない。「(膿が)これで出てきた」の声が聞こえた。説明されて知ったが、その後、切開した場所を経由して、膿が入っていた場所にドレーンを入れられ、糸で固定された。短いストローのようなものを肛門の横に差し込まれたわけである。そこから残っている膿が出てくるらしい。その後、ガーゼをかぶせられて、終了。

以上のことを、一言でいえば、外来の初診で、肛門周囲膿瘍を切開して排膿し、ドレーンを留置したとなる。

午前9時半頃に診察室に入り、手術が終わって、待合室に戻ったのは10時前である。30分もかからなかった。

「今日は、普段通り、生活してよいが、お風呂はダメで、軽くシャワーをする程度にしてください、明日、もう一度来て見せてください」という指示だった。

受付で、薬をもらって、支払いを済ませる。7810円(保険の効く分25340円×0.3+保険の効かない分210円)。ネットで調べるとかなり安い方らしい。肛門専門の病院には保険が効かないところも少なくないという。

処方された内服薬は、エリカナールカプセル250(セフェム系抗生物質)1日6カプセル×5日分、ビオフェルミンR(整腸剤)1日3錠×5日分。外用薬はマスキン液(5w/v%)、微温湯に溶かして希釈し、ガーゼに吸わせて消毒に使う。

手術前にあった痛みはほぼ完全に解消したのであるが、留置されたドレーンがかなり痛い。鏡を見て知ったが、ちょうどシッポが生えているかのように、ストロー様の出口が下向きに出ていた。座るとこれが邪魔になって痛いのである。だんだんと麻酔が切れてくると痛みが増してきた。歩けるけれども、ドレーンがこすれるためか、痛くてゆっくりとお散歩程度の速度でしか歩けないのだった。

あまりにも痛いので、後で電話して、鎮痛剤のボルタレンを5錠追加してもらった。飲み薬である。20円だった。ボルタレンはよく効いた。こういうとき、座薬のボルタレンはありなのだろうかと変なことを考えた。

無理すれば、仕事ができないでもないが、こんな痛みがあると集中力を欠くので、こういうときくらい休むことにした。横になっていると楽であった。

■ 切開翌日

朝一で行くとすぐに見てもらえた。先生「どうですか?」、私「痔の痛みはもうないんですが、ドレーンが痛くて痛くて。今日、抜いてもらえるんでしょうか?」

前日と同じように寝てみてもらうと、「膿たくさん出てるね」と言われ、膿はたくさん出た方がよいことに改めて気付く。ガーゼを見た限りでは、ニキビをつぶしたときのような膿がたくさん付着していた。薄まった血と思われるピンク色の血液もところどころ付着していた。

糸を切る音が聞こえて、ドレーンを抜かれた。ドレーンを抜く時がまた痛い。

「ツッペル」、「ツッペルないです」というやり取りが聞こえる。ツッペルは特殊な形のガーゼのことらしい。ドレーンがあった場所に、小さいガーゼを詰められ(詰めるとき、また痛い)、さらにガーゼを当てて終了となった。10分もかからなかった。「翌日から入浴していいですが、今日はシャワーで」と言われた。まだ、お酒はダメなようである。24日にもう一度来てくださいと言われた。

ドレーンを抜いてもらった後は、もうほとんど痛みはなくなった。手術前の痔の痛みもなくなり、今のところ、快調である。

■ このあとどうなるのか?

いまは切開してから二日後なのであるが、手術前の症状に関しては治った感じがしている。ネットで調べると、肛門周囲膿瘍は後で痔ろうになるとしているものやら、直接の関係はないとしているものやら、いろいろなのだが、次のような論文があった。

低位筋間型肛門周囲膿瘍に対する切開排膿に関して(日本大腸肛門学会誌63: 415-418, 2010)によると、経過観察1~66ヶ月(中央値20ヶ月)で、6割強が治癒(膿瘍の再発あるいは痔ろうの形成なし)という統計データになっている。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年2月21日 (土)

新車を当て逃げされる

2月19日午後1時頃、金沢市増泉3-15-15の三共パン増泉本店「石窯パン工房マイスターハオス」の駐車場で、家人が車に戻ったところ、車の右後方が大きく傷ついているのを見つけた(下写真)。すぐ下に別の車の部品が落下しており、同店で家人が昼食をとっている内に、当て逃げされたようである。

Img_3262_4

地上から約55cmの場所が水平に比較的大きく凹んでいるので、ゆっくりではなく10~20キロ程度のスピードでぶつけられたようである。逃げたのはボンネットが高い位置にある車であろう。その下に擦過傷も広範囲にある。逃げた車は右側の駐車スペースに入ろうとして、左前をぶつけたようで、落下していた部品も左前のランプに付けるもののようである。

ちなみに昨秋、購入したばかりの新車、日産セレナハイウェイスターである。

警察に届けて、部品から車種特定、修理工場などの手配をしてもらっていますが、もし、金沢市南部で左前の部品を損傷したような該当車を見かけましたら、連絡ください。

(以下3月9日追記)

結局、下部のバンパー取替え、上部の板金修理で10万9000円の痛い出費であった。アクサダイレクトの車両保険(免責1回目事故5万円)に入っていたので、修理代を車両保険で捻出しようと、アクサダイレクト(アクサ損害保険株式会社)に電話した。しかし、アクサダイレクトの電話担当者によると、アクサダイレクトの車両保険では、駐車場にとめていた車に当て逃げされたような場合でも、等級は据え置きにならず、カウント事故となって、3等級ダウン、次回より保険料アップとなってしまうという話であった。アクサダイレクトの保険の約款にそのような記載が見当たらないので、訊くと、「約款ではなく、重要事項説明書に絵を使って書かれている」という話である。とにかく、「据え置き事故になると書かれている<落書き、いたずら、台風・・・>以外はカウント事故になる」そうだ。これが重要事項説明書だけに記載されているらしい(約款に書かない理由は定かでない)。ちなみに、3等級ダウンすると、保険料にして年間1万1000円のアップになるので、使わない方が得策である。

駐車場にとめていた車を当て逃げされた場合のように、運転手に過失が認められない場合は、据え置き事故として、等級をダウンさせない保険会社が少なくないのだが、アクサダイレクトは違うようである。アクサダイレクトの保険料が安いのは、ダイレクトにやっているからだけではなさそうである。このことは、知っておいて損はない。

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年12月30日 (火)

個人的な今年の重大ニュース

その昔、大学生のころ、学生新聞(だったと思う)に「教授の選ぶ今年の十大ニュース」という特集記事があって、「ベルリンの壁崩壊」、「消費税導入」などの項目を挙げる先生がほとんどの中、「家族みんなで温泉旅行」、「息子が引っ越し」など個人的な出来事を上げている先生が一人だけいらした。アンケートの取り方が悪かったのかどうか知らぬが、どちらも十大ニュースにはちがいない。ここに書こうとしている重大ニュースは後者の方である。

■ 新車「日産セレナ ハイウェイスター」購入

1999年からトヨタ「ラウム」に乗っていたが、車検も3回やったし、走行距離も10万キロを超えたし、塗装もはげてきたしということで、クルマを新しくした。カーナビ付きで総額約285万円である。今、乗っているが、高めで、かつよく売れているクルマは伊達ではなかった。7人乗りだが、3列目のシートも普通に広いし、見晴らしがよく、2歳の子どもがチャイルドシートに座るのを嫌がらないようになった。

車格が違うので比較しにくいが(ラウムは1500cc、セレナは2000cc)、ラウムは運転しているとフワフワフワフワした乗り心地だったが、セレナは足がしっかりと安定している。どっちが好きかは好みの問題ではある。高速道路を走ると時速90キロで走っているトラックを追い越すことが多いのだが、ラウムだと90キロから100キロに加速するのにかなりの時間がかかり、追い越し車線でバッシングされることもしばしばだった。セレナだと90キロのトラックはスムーズに追い越すことができる。

トヨタのヴォクシー、ノア、アルファードなども考えてみたが、トヨタのミニバンは全て後部座席の床面が少し高くなっていて、足の置き心地がよくないのである。狭いところで座面の低いイスに座らされている気分である。長距離乗るのは耐えられないということになった。あれは何とかならないものだろうか。

また、プリウスは低速走行時にエンジン音が出ず、歩行者の後ろから接近した時に気付かれにくいので却下した。普通の車で路地を走るとよくわかるが、歩行者は普通、後ろから接近するエンジン音に無意識のうちに対処しているものである。実際、私は自分のすぐわきを後ろから、プリウスにすり抜けられたことが何回もあって、燃費がいくらよくても、歩行者を驚かせる(場合によっては接触してしまう)車はダメだろうと考えるようになった。騒音はよくないが、歩行者に接近するときに何らかのシグナルは必要である。

最後まで候補に残ったのは、トヨタ「ウィッシュ」、ホンダ「ステップワゴン」、日産「セレナ」であった。ウィッシュは3列目が狭いので、候補から消えて、最後はステップワゴンとセレナの二つで迷った。衝突安全性の試験結果(国土交通省のページ)はステップワゴンの方が少し良かったのである(ホンダは安全性がいまいちという印象を持っていたので意外だった)。結局、車内からの見晴らしがいいという理由でセレナを選んだ。どの販売店の営業担当もそうだったが、衝突安全性への関心がほとんどなかったのが困ったところである。

ちなみに、セレナを購入した(株)日産サティオ石川なのだが、9月に倒産するというオチまでついた。自動車の販売店が倒産すると、そのメーカーの自動車のブランド性、信用性にかかわるので、メーカーが資金援助して倒産させないのが普通と聞いていたが、日産はそうでもないらしい。

■ 同級生の突然死

中学、高校と同級生で(中高一貫校なので中学の同級生は高校でも同級生である)、大学でも一緒だった友人(I君)が今年の8月に亡くなっていたことを、12月になって知ったのだった。40歳、前厄の年だった。いわゆる「心臓突然死」で、あまりにも突然の出来事で、ご家族は旧知の友人への連絡のとり方がわからなかったそうで、亡くなった4ヶ月後に訃報を知ることになった。知ったきっかけも、大学時代の友人が「久しぶりに飲みに行こう」と携帯にメッセージを残しても返信がなく、連絡が取れない。それを何回か繰り返した後、ご家族から「8月に亡くなりました」と連絡があったのだった。

それで、遅ればせながら、大学時代の友人7名で、姫路にあるI君の実家を弔問してきた。東京から4名、大阪から2名、金沢から1名(私)である。「このメンバーが集まったら、必ずいるはずのあいつがいないんだよ」とO君が言った。

霊前に焼香した後、在りし日のI君を偲んだ。

ショックを受けたのは、前から心臓を病んでいたわけではなく、体型も標準で4日前までサッカー観戦やら飲み会にでかけて、普通に生活をしていたということであった。健康体そのもので職場から健康優良の表彰を受けていたという。中学、高校も皆勤賞であった。体が丈夫なことを自負していたを覚えている。血圧が少し高いとは言っていたらしい。亡くなる日に体調不良で会社を早退、翌日、出社せず、連絡も取れないことを不審に思った会社の同僚に自宅マンションで亡くなっているのを発見されたという。

弔問後、「姫路城に昇らねばならぬ」ということで、姫路城の天守閣まで昇ってきた。相変わらず急な階段だった。I君の母校ってどれ?と聞かれたので、「あれがI君(と私)の母校の淳心学院」と天守閣から母校を見下ろして指さした。

姫路城周辺は3階建てより高い建物は建てられないので、母校も含め周辺の建物は3階建て以下になっていることやら、姫路城は標高46メートルの姫山という山の上に建っているのでそびえるように見えること、城周りの内堀以外にも、国道2号線沿いに見える高さ1m程の石垣が中堀の跡で、姫路駅は外堀を埋めて作られたこと、中堀の石垣沿いには昔、木造民家が並んでいたこと、「姫路市本町68番地」という住所が姫路城一帯の広い地域を表す住所として使われていて、68番地以下の枝番がなかったのでかなり不便だったこと(一つの番地で国内最大世帯数だった)、デパートはヤマトヤシキと山陽百貨店の二つしかないこと、姫路市立美術館のレンガ造りは美術館のために建造したのではなく前は市役所で、その前は陸軍第10師団の兵器庫、被服庫で、明治時代の建物であること、大手前公園は昔、練兵場だったので年配の人は今でも「練兵場」と呼んでいること、太平洋戦争のとき姫路は大きな空襲に遭ったが姫路城だけは無傷で残ったこと、などをつらつらと案内した。

弔問に集まった7名、ほとんどが十数年ぶりに会う人たちで、久しぶりのプチ同窓会のような雰囲気で旧交を温めることができた。これもI君が引き合わせてくれたようなものだと思う・・・。

I君の御冥福をお祈りします。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年10月23日 (木)

北陸鉄道 鶴来・加賀一の宮間廃止へ

新聞地方版、ローカルニュースによると、北陸鉄道石川線の一部、鶴来-加賀一の宮間(2.1キロ)が来年11月1日までに廃止される。今日、国土交通省北陸信越運輸局に廃止届が提出された。

現在、北陸鉄道(本社・金沢市)は鉄道事業として、野町-加賀一の宮間(15.9キロ)の石川線、金沢-内灘間(6.8キロ)の浅野川線の2路線を運行しているが、廃止されるのは石川線の南端の鶴来-加賀一の宮間

石川線は利用客の減少が続き、1988年に200万人、1998年に169万人いた利用客は昨年度は127万人まで減少。約10年で約4分の3。ピーク時(1966年)の約5分の1。

廃止区間の年間利用客は6万7千人(一日180人)とひときわ少ない。廃止される区間は一日15往復の運行なので、1列車の平均乗客数約6人。白山比咩(はくさんひめ)神社への初詣客の利用が多く、その時期を除いて計算すると1列車平均約5人

昨年度の赤字は5900万円。廃止区間だけでも900万円の赤字。

現在、野町-鶴来間は一日34往復(休日は30往復)走っているが、廃止される鶴来-加賀一の宮間は一日15往復。

「線路、橋梁、変電所の老朽化が進み、今後5年間に維持、更新費用が約5億円必要だが、その余力はない。廃止予定は来年11月1日だが、可能であれば早めたい」と社長が記者会見で述べた。

鶴来-加賀一の宮間は1927年(昭和2年)に金名線の一部として開通した。金名線は、1984年に廃止された加賀一の宮-白山下間と合わせて、金沢と名古屋を結ぶ予定で建設されたものである。金名という名称はその名残。

Haishi_s_2 

上は廃止を伝える地元の北國新聞の記事(本日付朝刊)。

北陸鉄道石川線は私もよく利用していたが、おもな乗客は終点の野町にある津田駒への通勤客と、沿線の金沢工業大学や高校への通学客である。

同じ北陸鉄道が運行する路線バスに比べてそれほど速いわけでもなく、便利なわけでもない。野町-工大間はバスで12分、鉄道で10分である。

廃止される鶴来-加賀一の宮間はバスで7分、鉄道で6分。廃止されるのは残念だが、1列車5人という利用客数から考えても、廃止区間はバスで十分、代替可能なのは事実である。

環境負荷の面でも、電車を1両動かす時に排出するCO2量(火力発電を考える)と、バス1両を動かす時のCO2排出量はほぼ同じである。北陸鉄道は2両編成で運行されているから、エネルギー消費量(CO2排出量)でも、バスの方に分がある。

私は石川県に来てすぐの時、白山麓に向かう国道157号の途中、手取川にかかる橋の下に加賀一の宮駅が見え、そこにステンレス製の電車が太陽光を受けて輝きながら止まっているのを見て、こんなところまで電車が走っているのかと、えらく感動した覚えがある。付近は集落の点在した田園地帯である。国道157号は田園地帯にしては比較的交通量の多い道路なので、この道路が整備されるまでは、電車の利用者が多かったのだろうなと、そんなことを考えていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)